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わたしの名前が、窓口から呼ばれました。
ソファーにお兄ちゃんを残して、診察室の手前の控え室に入ります。
控え室の脱衣籠に、脱いだワンピースを畳んで入れました。
わたしの順番が来て、O先生の前の丸椅子に座りました。
O先生はわたしの胸に聴診器を当て、扁桃腺を覗きました。
「○○ちゃん、特に変わったことはない?」
「お兄ちゃんが、久しぶりに帰ってきました」
「ホント? 良かったねー。体の方で変わったことはない?」
「昨日はお出かけしたので、少し疲れました」
「う〜ん。尿検査の結果は潜血も蛋白も±ね。
これぐらいなら心配はないと思うけど、体を冷やさないように。
念のために今日は血液検査もしておきましょ。
あと、お兄ちゃんが来てるんだったら、
ちょっとお話があるから呼んでくれる?」
「はい」
わたしは控え室に戻って服を着て、窓口から顔を出しました。
お兄ちゃんは、診察室の前のソファーでだらけていました。
「お兄ちゃん」
お兄ちゃんが立ち上がって、こっちに来ました。
「どうしたんだ?」
「O先生が、お兄ちゃんにお話があるって」
お兄ちゃんと入れ替わりに、わたしは隣の処置室に行きました。
顔なじみになったベテランの看護婦さんが、採血の準備をしていました。
採血の注射は痛いのですが、上手い人がするとほとんど痛みません。
下手な人にされると、何度も針を刺し直されて、涙目になります。
椅子に座ったまま、採血の跡を清浄綿で押さえて血が止まるのを待っていると、
お兄ちゃんがやってきました。
「○○、終わったぞ。帰るか」
「うん」
わたしは立ち上がって、会計に行きました。
また待たされた後、支払いをすると、処方箋が出ていました。
「薬を出しておくから、もし具合が悪くなったらすぐ飲むように、
って先生が言ってたぞ」
診察時間は5分ぐらいでしたが、薬袋を受け取った時は、
もうお昼を過ぎていました。
お腹が空いたので、外来向けの食堂でお昼を食べることにしました。
「いつもこんなに待たされるのか?
ひとりだったら退屈で死にそうになるな〜」
「お兄ちゃんは、じっとしていると、落ち着かない?」
「ん、まあな。体を動かしたくなってくるよ。
話し相手が居れば別だけどな」
「……わたしだと、あんまり喋らないから、退屈?」
「ははは、そんなことないぞ。見てるだけで面白い。
お前、自分で気づいてないのか?
無表情で窓の外を眺めてて、息してないんじゃないかと思うこともあるけどな。
時々、急ににんまり思い出し笑いしてるだろ」
「ウソっ! にんまりなんか、してない」
「ほっぺたがビミョーに動くだけだからな。
気づかないヤツが多いだろうけど、俺の目はごまかせないぞ」
お兄ちゃんは満面にやにやして、悪戯っぽい目になっていました。
「知らない」
わたしがそっぽを向いて、黙々とランチを口に運んでいると、
お兄ちゃんは何事もなかったかのように、話しかけてきました。
「これからどうする? 真っ直ぐ帰るか?」
「……少し、散歩して行かない? 病院の前の道」
病院の前には、桜の並木道がありました。
まだ、桜の花は咲いていませんでしたが、青々とした葉が茂っていました。
「もう少ししたら、桜が咲くな。中学校の入学式の頃かな」
「お兄ちゃんが、入学式に来てくれたら良いな」
「……う〜ん。俺も入学式があるからなあ」
「うん……」
「新入生説明会には行くよ。
体操服や通学鞄を受け取ったり、けっこう荷物になる。
保護者が出席しないといけないけど、どうせあいつらは当てにならないしな」
「ホント? すごく楽しみ。
お兄ちゃんと、同じ学校に通いたかった……」
体操服のサイズは、卒業式の前に小学校で申込書を出していました。
「ハァ……お前がもう中学生か。なんだか、おじさんになった気分だ」
「高校生でおじさんは、早すぎ」
「そうだ。中学校の入学祝いを買ってやる。
予算は心配すんな。F兄ちゃんから軍資金を貰ってあるから。
なんか欲しいモノはあるか?」
「…………」
わたしは物を欲しいと思うことが無いので、困りました。
かといって、現金や図書券では味気なさ過ぎます。
「急に言っても無理か」
「……腕時計」
「そっか、じゃ、駅前の時計屋に寄って帰ろう」
「お兄ちゃんが、今はめてる、その腕時計が欲しい」
「ん、これは男物だぞ。お前の腕にはがばがばだ」
「腕にはめないで、ポケットに入れるから。
お兄ちゃんは新しいのを買って、今はめてるのを、わたしにちょうだい」