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わたしは眠りが浅くて、夜中に何度か目を覚ますことがあります。
薄く目を開けると、目の前にお兄ちゃんの顔がありました。
寝ぼけ眼で、ああ、お兄ちゃんが居る、と思いました。
両手を伸ばして、お兄ちゃんの頬をぺたぺたと触りました。
お兄ちゃんの顔が近づいてきて、わたしの唇に、キス、しました。
かすかに触れるだけの、ファーストキスでした。
わたしはたまらなくなって、はあ、とため息をつきました。
夢うつつの中で、髪に、耳に、首に、胸に、お兄ちゃんの手のひらを感じました。
手足が自由に動かなくて、深い水底に沈んでいるような気がしました。
頭の芯はぼんやりと麻痺しているのに、体の内側は熱く燃えるようでした。
わたしは不意に正気に戻り、あっ、と叫んで目を見開きました。
お兄ちゃんは、目の前から掻き消えていました。
上体を起こしてきょろきょろ見回すと、部屋に明るい光が満ちていました。
時計を見ると、もう10時を過ぎていました。
わたしは混乱しました。
まだ、唇に、お兄ちゃんの感触が、鮮明に残っていました。
わたしがベッドの上でぼうっと余韻に浸っていると、ドアが開きました。
「○○、もう起きたか? 朝ご飯食べないと……」
お兄ちゃんは、わたしのエプロンを着けていました。
「あ……お兄ちゃん、おはよう……」
いつもと変わらないお兄ちゃんの顔を見て、思わず視線を横にずらしました。
夢だったんだ……と思いました。
「……ん? どうした、顔が真っ赤だぞ?」
そう言われて、ますます頬の熱さを意識しました。
「……変な夢を見ただけ。着替えたら、すぐ行く」
「ん、食堂で待ってる」
階段を下りるお兄ちゃんの足音を確かめてから、わたしは自室に戻りました。
パジャマを脱ぎ、湿ったショーツを新品に穿き替えました。
お兄ちゃんの前で、どんな顔をしたら良いのだろう、と思いました。
食堂に入る時、自分の顔が強ばっているのがばれないか、とびくびくしました。
お兄ちゃんは椅子に座って、新聞を広げていました。
「お兄ちゃん、おはよう……」
「おはよ」
お兄ちゃんは新聞を畳んで、にっこりしました。
朝のロードワークの後にシャワーを浴びたのか、さっぱりとしていました。
朝食のメニューは、ご飯、甘い卵焼き、薄いおみそ汁、納豆と海苔でした。
食事制限は緩められていましたが、おみそ汁のおつゆは飲みませんでした。
「今日はどっか行こう。行きたいとこあるか?」
「う〜〜ん……」
ずっと引きこもっていたので、場所のイメージがさっぱり湧きません。
「決まらないんなら、任せろ」
「うん。お茶碗洗うから、エプロン貸して」
「俺が洗っとく。お前は服を着替えて来な」
部屋で外出着に着替えて食堂に戻ると、お兄ちゃんが怪訝そうな顔をしました。
「お兄ちゃん、どうかした?」
「そのワンピース、昨日も着てたな?
去年も同じのを着てたし……小さくないのか?」
「これ? 前のは小さくなってきたから、新しく買ったの。
同じのが、5着ある。毎日でも着れる」
「え? 毎日、同じ服なのか?
服を1着しか持ってないと思われるんじゃないか?」
「なぜ、そう思われるの?
1着しかなかったら、洗濯できないから汚れちゃうでしょ?」
「……まあ、それはそうだけど。
なんで違う服を買わないんだ?」
「これは、お兄ちゃんが選んでくれた。
それに、たくさん種類があると、朝どれを着ていくか迷う」
お兄ちゃんは、苦笑いを浮かべました。
「だったら、曜日によって着る服を決めとけばいいだろ。
今日は、新しい服を買いに行こうか」
なるほど、と思いました。
「うん」
駅前でバスから降りると、春休みのせいか周りは人混みでした。
わたしは、お兄ちゃんの差し出した手を取りました。
お兄ちゃんと手をつないで歩くのは、ずいぶん久しぶりです。
横断歩道で、赤信号だったので立ち止まりました。
わたしはお兄ちゃんの肩に、顔を寄せて呟きました。
「お兄ちゃん、一緒にここに来るの、久しぶりだね」
お兄ちゃんが、わたしの目を見て言いました。
「○○、ずいぶん元気になったな。最近は調子良いか?」
「うん、今日は体がすごく軽い」
地に足が着いていないような気がしました。
「信号が変わるぞ」
前を向いて、見知った顔に気づきました。
R君が、向かい側の人混みの中に居ました。