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それからのわたしは、ぼんやりすることが多くなりました。
お兄ちゃんに名前を呼ばれても、しばらく気がつかないくらいに。

日曜学校に行ったり、挨拶やふつうの会話をしていたはずなのに、
どれも記憶からすっぽり抜け落ちています。

お兄ちゃんが田舎に戻ってしまう前日の夜、
晩ご飯の席で、わたしはお兄ちゃんに呼びかけました。

「お兄ちゃん……」

「ん、なんだ?」

お兄ちゃんが顔を上げて、わたしを見ました。

「…………」

問い返されても、なんと口にしたら良いのかわかりません。
このままではいけない、と理解してはいましたが、
うっかりしたことを口走ったら、何もかも終わってしまう、
そんな不安が喉を締めつけていました。

「どうした?」

お兄ちゃんは怪訝そうな面持ちで、わたしの顔を覗き込みます。

「……なんでもない」

わたしはやっとのことで、ため息のように言葉を吐き出しました。
わたしが目を逸らして食事を続けているあいだ、
お兄ちゃんはじっとこちらを見つめているようでした。

口に入れた物の味が舌に感じられない、重苦しい食事が済んで、
お風呂に入りました。わたしが先で、お兄ちゃんが後でした。
「いっしょに入りたい」と言える雰囲気ではありませんでした。

パジャマに着替えて部屋に戻り、ベッドの上でごろごろ転がりました。
なんとかしないと、このままお兄ちゃんは田舎に行ってしまう……
そんな焦燥感がわたしを突き動かしました。

わたしは部屋を出て、階段を下りました。
リビングに入ると、お兄ちゃんが生乾きのカールした髪を垂らして、
ソファーにもたれていました。

お兄ちゃんはクリスタルグラスを手にしていました。
テーブルには、ウイスキー瓶とピッチャー、氷を盛った籠が載っています。
グラスに入っているのは、ウイスキーと氷だけのようでした。

「お兄ちゃん」

お兄ちゃんはハッとしたようでした。
わたしは足音を立てないで歩く癖があるので、
すぐそばに近寄るまで気づかれないことがよくあります。

「○○か……お前も飲むか? アルコールは拙いんだっけ?」

お兄ちゃんがわたしにお酒を勧めたのは、これが初めてでした。
お兄ちゃんはお酒を飲んでも顔色が変わらないので、
酔っているかどうか、さっぱりわかりません。

「別に、腎臓には悪くないと思う」

腎炎でも度を過ごさなければ、アルコールには食欲増進の効果があります。
もちろん、お兄ちゃんもわたしも未成年だというのは、別の問題です。

「まぁ座れ。作ってやる」

お兄ちゃんはリビングボードからもう1つグラスを取り出して、
氷を入れ、ウイスキーを水で薄めました。

わたしはお兄ちゃんの隣に腰を下ろしました。
受け取ったグラスの中身は、薄い琥珀色でした。

「薄ーくしたけど、一気に飲むなよ?」

わたしは思い切って、グラスに口を付けました。
苦さと辛さが入り混じったような味でした。
喉を通るときに、ひりひり灼けるような感じがして、
お腹の中がぱあっと温かくなりました。

「どうだ?」

「……からい」

よく見ると、お兄ちゃんの目つきがとろんとしているようでした。
でも、以前と同じ、優しげな目でした。

「テレビもつけないで、お酒ばっかり飲んでたの?」

「うー、お前絡み酒か? 勘弁してくれ。
 いっしょにまた『台風クラブ』でも観るか?」

お兄ちゃんといっしょに『台風クラブ』を観るのは、これで5〜6回目でした。
ストーリーは頭に入っていましたが、何度観ても映像と音楽に心がざわめきます。

わたしはちびちびと1杯飲んだだけでしたが、
お兄ちゃんはそのあいだもグラスを重ねていました。

ビデオが終わると、わたしは「うにゃ〜」と言って、
お兄ちゃんの肩にもたれかかりました。

お兄ちゃんが指で首や顔をくすぐってきたので、
わたしはお兄ちゃんの人差し指を噛んで、指先をぺろぺろ舐めました。

お兄ちゃんは「お返しだ」と言って、わたしの右手を取り、
口に入れました。人差し指から小指まで全部、入ってしまいました。

舌の感触に驚いてわたしが指を引き抜くと、お兄ちゃんは立ち上がりました。


wwうにゃー
2016-03-30 19:54:03 (2年前) No.1
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