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お兄ちゃんは、左肩を起こして、右肩を下に横になりました。
狭いシングルベッドで、二人が寝るために、わたしの場所を作ってくれたのです。
わたしは左肩を下に横になって、お兄ちゃんに身を寄せました。

シーツから仄かに、お兄ちゃんの匂いがしました。
お互いの息が掛かるほど近い距離で、お兄ちゃんの顔を見つめました。
お兄ちゃんが、毛布と布団をわたしに掛けて、微笑みながら言いました。

「一緒に寝るなんて、何年ぶりかな?
 寝付くまで見ててやるから。
 安心して眠れ」

わたしの頬を、お兄ちゃんの息がくすぐりました。
お兄ちゃんの優しい目を見ていると、体がとろけて行くようでした。
なんだか、世界にお兄ちゃんとわたししか居ないような気がしました。

わたしは、お兄ちゃんの右腕を取って抱え込み、胸に抱き締めました。
わたしの体に当たった所から、お兄ちゃんの温もりが伝わってきて、
全身に熱が行き渡るようでした。
不安も怖れも無くなって、胸の奥に熱い塊が生まれました。

今なら、なんでも好きなことを、言えそうな気がしました。
胸の中の熱い塊が、だんだんと大きくなって、喉元まで上がって来ました。
ぼうっとした頭のまま、ひとりでに言葉が口を衝いて出ました。

「……お兄ちゃん」

わたしの熱っぽい声に、お兄ちゃんが答えました。

「ん? どうした?」

続けて口を開こうとした、その刹那、自分が何を口走ろうとしているのか、
ハッと気付いて、舌が麻痺しました。

どうして、今の今まで、お兄ちゃんにCさんという恋人が居る事を忘れていたのか?
それに実の妹が告白したら、お兄ちゃんは「気持ち悪い」と思うかもしれない。
この二つの思いが、わたしの舌を縛ったのです。

もう少しで口から出るところだった、「愛してる」という言葉だけでなく、
「なんでもない」という誤魔化しさえ、わたしの舌は紡いでくれませんでした。

わたしは、気遣わしげなお兄ちゃんの視線を避け、目をつぶって、
お兄ちゃんの肩に顔を埋めました。
お兄ちゃんは、何も言いませんでした。
お兄ちゃんの左手が、わたしの髪を繰り返し、優しく撫でました。

わたしは、熱い塊を胸の奥底に閉じ込め、お兄ちゃんの温もりに包まれながら、
眠りに落ちて行きました。

夢も見ない、一瞬の暗闇から浮かび上がると、わたしの腕の中には、
もう何もありませんでした。
目蓋を開いて、残っていたのは、お兄ちゃんの作ったシーツの皺だけでした。

「お兄ちゃん、行っちゃった……」

わたしは虚ろに呟き、シーツに顔を埋めました。
かすかに、お兄ちゃんの残り香がしました。
なぜだか、涙はひとしずくも湧いて来ませんでした。
胸の中が、空っぽでした。
大きな穴が開いて、冷たい風がひゅうひゅうと吹き抜けるようでした。

その日からわたしは、魂の無い人形になりました。

新学期が始まりました。
わたしに生じた外見上の異変は、ほんの些細なものでした。
誰かに話し掛けられても、ぼんやりするだけになりました。
授業中に指名されても、答えられない事がありました。
本を開いても、何も頭に入らなくなりました。

けれど、時間を掛けて体に染み付いた、習慣の力は偉大です。
何も考えていなくても、わたしは一人で起きて、
朝ご飯を作って食べ、身支度し、学校に行き、授業を受け、帰宅し、掃除し、
洗濯し、晩ご飯を作って食べ、お風呂に入って寝る事が出来ました。

わたしが言葉と表情を無くした事に気付く人は、誰も居ませんでした。
わたしは元々、学校でひとりぼっちでした。
今は、家でもひとりぼっちになっただけです。

わたしがお兄ちゃんに電話する事は、
お兄ちゃんに里心が付くといけないからと言って、両親に禁じられていました。
田舎の電話番号も、正確な住所さえ、教えて貰えませんでした。
わたしが毎晩、何時間も長距離電話するんじゃないか、と疑われたのです。
実際、禁じられていなかったら、そうしていたかもしれません。

わたしの目に映る、お兄ちゃんの居ない世界は、影絵のようでした。
わたしはその中で、死んではいないだけで、生きてもいませんでした。
一日一日が同じ事の繰り返しになり、昨日と今日の区別が曖昧になりました。
休日の朝、登校して、正門が閉まっているのを見て、そのまま帰る事もありました。

わたしは何も見ず、何も感じず、何も考えず、
ただ、胸に開いた大きな穴を通り過ぎる、風の音だけを聞いていました。

2月の末になって、ようやくわたしの異変に気付いた人が居ました。
担任の先生でした。

わたしはテストの日の後、職員室に呼び出されました。
先生はわたしを会議室に連れて行って、扉を閉めました。
わたしは椅子に座らされ、先生と膝を突き合わせました。
わたしがぼんやり遠くを眺めていると、先生が口を切りました。

「××さん。どうしたの?
 テストの点数が3学期になってから落ちてるけど。
 まだ平均点よりは上だけど、あなたからすると信じられないようなミスをしてる」


つらいね……
2017-05-30 03:31:53 (6年前) No.1
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