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しばらく経って、Pさん夫婦が揃ってお医者さんに、
「よろしくお願いします」と頭を下げる声が、聞こえてきました。

扉を開けて、閉める音がしました。
毛布の隙間から覗くと、Pさんが旦那さんの肩に顔を埋め、
声を殺して泣いていました。
旦那さんはPさんの背中を、黙って撫でていました。

わたしは、侵してはいけないものを盗み見てしまった気がして、
毛布を被り、そのままぎゅっと目をつぶりました。

若い夫婦に初めて授かった赤ん坊が、まだ何の罪も犯していないのに、
こんなにも死に近いところに居る……。

そのおそるべき理不尽さが、わたしを戦慄させました。
さっきまで自分を支配していた病気への怖れなど、問題にもなりません。

わたしは、どこに居るのかわからない神様に、
どうかわたしの体を治すより先に、この赤ん坊を助けてあげてください、
と一心に祈りました。

翌朝わたしは、看護婦さんに起こされました。
定期的な検温の時間でした。

Pさんがわたしに、にっこりと微笑みかけました。
わたしは昨夜のことが、夢だったのかと思いました。
どうしてPさんが泣き喚かずにいられるのか、わかりませんでした。

「おはよう。○○ちゃん。
 ゆうべ、この子が夜泣きしたけど、うるさくなかった?」

「……おはようございます。
 泣いたなんて、ぜんぜん気が付きませんでした」

赤ん坊は、滅多に泣きませんでした。
泣いても声に力が無くて、ちっともうるさく聞こえないのです。
それに気付いて目覚めるPさんに、わたしは感嘆しました。

わたしの朝食は、またリンゴと氷砂糖だけでした。
Pさんが当たり前のように、リンゴの皮を剥いてくれました。
食後の薬は錠剤と粉薬を合わせて5種類もあり、
それだけでお腹が膨れそうでした。

昨日わたしが粉薬にむせていたのに気付いたのか、
Pさんが看護婦さんに言って、オブラートを貰ってくれました。

わたしはベッドから出ることを禁じられていたので、
ベッドの下に仕舞ってあるおまるで、用を足さなければなりませんでした。

この病院は完全看護で、看護婦さんが始末してくれるのですが、
頼みもしないのに、Pさんがさっさと片づけてくれました。
わたしは恥ずかしくて、もごもごとお礼を言いました。

「ありがとうございます」

「いいの。
 わたしが好きでやってるんだから、いちいちお礼言わないでね」

「?」

「あの子、一日中寝てばっかりでしょ。
 ミルクを飲ませておむつ替えたら、ただ見ているしかできなくて。
 もっと色々世話ができればいいのに……。
 だから、あの子の代わりに、世話させてちょうだい」

Pさんの笑顔は、どこか寂しげで、ハッとするほど綺麗でした。
わたしには、うなずくことしかできませんでした。

昼前に、O先生が回診にやってきました。
O先生は、ゆっくり噛んで含めるように説明してくれました。

「検査の結果がもう少し良くなるまで、
 しばらく食事はリンゴと氷砂糖だけだから、
 お腹が空くと思うけど、我慢してね。
 リンゴなら、余分に食べても構いません。
 4〜5日したら、ご飯が食べられるようになると思います。
 1週間目ぐらいに、腎生検という特別な検査をします。
 腎臓病にも色々あって、どういう種類でどういう時期かによって、
 効くお薬がぜんぜん違ってきます。
 腎臓の様子を一番よく知るには、
 背中から針を刺して、腎臓の組織をちょっぴり採らないといけません。
 検査の後は、腎臓から出血するおそれがあるから、
 1週間はベッドでずっと上を向いて、じっとしていないと駄目。
 腎生検の結果が出れば、今よりあなたに合ったお薬が出せます。
 薬がうまく効いたら、じきに退院できるようになります。
 なにか、聞きたいことある?」

O先生が軽い口調で言った腎生検のことが気になりました。

「腎生検の針って、どれぐらい太いんですか?」

「うーん……患者には、針は見せないことになってるの。
 興奮するといけないから。
 麻酔をかけるから、痛みは感じないはずよ」

患者に見せると興奮する太さとはどれぐらいか、想像できませんでした。

O先生が立ち去った後、Pさんが枕元に来ました。
Pさんはわたしを座らせ、自分の櫛でわたしの髪を梳きました。

「あの子ね、女の子なの。まだ見た目じゃわからないけど。
 大きくなったら、これぐらい髪を長く伸ばしてほしいな」

3日後の朝、Pさん夫婦の赤ん坊は、大学病院に転院していきました。
Pさんは最後にわたしをぎゅっと抱き締めて、
「あなたも早く退院できるといいね」と言いました。
わたしは、「お元気で」と言いながら、必死に涙を堪えました。


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