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「え……?」
わたしは自分の耳を疑いました。
当然のように、春休みにはお兄ちゃんが帰ってくる、と思っていたからです。
「春休みはバイトするんだ。免許取ってバイク買いたいからな」
受話器から漏れてくるお兄ちゃんの声が、妙に平板に聞こえました。
「いつ……帰ってくるの?」
「そうだな……夏休みになったら、ツーリングがてらバイクに乗って帰るよ。
4ヶ月ぐらい……すぐだ」
わたしにとっては、それこそ永遠に等しい時間に思えました。
「○○? ……それまで、ひとりでやれるな?」
お兄ちゃんの質問にしては珍しく、肯定を強要するような響きがありました。
わたしは、息を振り絞って、「うん……」と答えるほかありませんでした。
「体の具合はどうだ?」
「……悪くない」
「勉強には付いていけてるな?」
「……だいじょうぶ」
「新しい友達できたか?」
「……まだ」
お決まりの質問が済むと、重苦しい沈黙が降りてきました。
電話越しに聞こえるかすかな息遣いが、わたしとお兄ちゃんをつなぐ、
唯一の絆でした。
「それじゃ……またな」
わたしからかけた電話なのに、お兄ちゃんが幕を引きました。
「うん……お兄ちゃん、またね」
受話器を置くと、いつもお兄ちゃんと電話で話した後とは違って、
胸がきゅっと締め付けられるように痛みました。
雛祭りパーティーで感じた高ぶりは、もう微塵も残っていませんでした。
わたしは久しぶりに胸の空虚さを抱えながら、浅い眠りにつきました。
ホワイトデーが近づくにつれて、漠然とした不安が増してきました。
その日に気づかないまま過ぎてしまうことを、どこかで期待するぐらいに。
3月14日の当日、宅急便で小さな箱が届きました。
包みをほどくと、中にはお兄ちゃんが焼いたクッキーが入っていました。
手紙やカードのたぐいは、なにも添えられていませんでした。
わたしはクッキーを1個指でつまんで、口に入れました。
昔お兄ちゃんが作ってくれた、焼きたてのあつあつとは違う、
冷めたクッキーの味でした。
お兄ちゃんがわたしを置いて、遠く遠くに離れていくような気がしました。
涙が湧いてきて、止まりませんでした。
頬をぬぐいもせず、わたしはぼりぼりとクッキーを囓り続けました。
第2学年に進級する前の春休みには、これといった特別な思い出がありません。
ただ、1人でよく散歩をしました。
当てもなく歩いていると、方向音痴のわたしはよく迷子になりました。
迷子になっても、小さかった頃のように、あわてることはありません。
初めて見る街並みが楽しくて、だれもわたしを知らない街角を、
見知った景色が現れるまで、歩き続けました。
2年生からは、体育の授業にも参加できることになっていました。
体力的に劣るわたしには、長い散歩はよいリハビリになりました。
始業式の当日の朝、クラス割りを書いた紙が廊下に張り出されて、
わたしはUやVと別のクラスになったことを知りました。
知り合いの居ない教室の椅子に1人座って、
わたしは中学時代の1年が、過ぎ去ってしまったのを実感しました。
懐かしい人と別れたような、静かな惜別の悲しみがありました。
新しい担任のf先生は、新任の若い男の先生でした。
まだ経験が少ないせいか、ホームルームの進め方がぎこちなくて、
生徒の失笑を買っていました。
男子生徒にやじられて立ち往生しているところを、
女子の1人に「可哀相でしょ、やめなさいよ!」と助けられる始末です。
弱り切って情けない顔をしているf先生を見ていると、
寝ている時のお兄ちゃんの、子供のようなあどけない表情を思い出して、
わたしもくすりとしました。
f先生は勉強が良くできたようでしたけど、
どうして生徒が問題を理解できないのかが理解できないらしく、
授業は下手でした。
でも、優しそうな顔をしている上にとても熱心で、
運動部系の部活の顧問として、休日も返上していたらしいです。
そのせいか、男性教師の中では女子に一番の人気でした。
お金持ちの一人息子の「お坊ちゃん」だというので、陰ではそう呼ばれていました。
男子の一部からは反感を買っていたようです。
f先生は自分の授業だけでなく、生徒の補習の指導もしていました。
テストの成績が悪かった生徒を、会議室としても使われる指導室に呼んで、
課題を与えて自習させるのです。
定期試験が終わった日、わたしは帰りにf先生に呼び止められました。
「××、ちょっといいか?」
「はい? なんでしょうか」
「立ち話もなんだし、指導室に来てくれるか」
わたしは先生の後について、指導室に入りました。