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人間の、環境に適応する力は大したものです。
水深一千メートルの水圧に耐える深海魚のように、
終わらない地獄にも慣れることはできるのだ、と思いました。

深海の底に似た暗く静かな世界で、わたしは生きていました。
意識を半分は眠らせていたのかもしれません。
泥がかき混ぜられないように、なるべく家に居たくなくて、
遅刻してでも学校に行くことが多くなりました。

学校ではほとんど、自分の席で本を読んでいました。
本の中の世界は、わたしがページを閉じれば終わります。
わたしを脅かすことはありません。

高校受験が近づいて、周囲では勉強の話題が多かったようです。
その話の輪にわたしが加わることはありませんでした。
今のクラスには、親しい友達が居ません。
休み時間になると、わたしの席だけ、離れ小島になりました。

そんなある日、いつものように読書をしていると、
わたしに話しかける声がありました。

顔を上げると、見覚えのある顔のクラスメイトの女子でした。
少し考えて……hさんだ、と思い出しました。
わたしになんの用だろう、と疑問に思いながら、返事をしました。

「なに? hさん」

「ああよかった……。
 なかなか返事してくれなくて無視されてるのかと思いマシタ」

hさんはおどおどした様子で、妙に焦っているようでした。

「クラスメイトなのに、どうして敬語を?」

「あはあはあは……。××さん、なんか怖くて……。
 同い年の感じがしないんデス」

微妙に失礼なことを言われたような気がしましたが、
指摘すると余計に萎縮しそうだったので、聞き流すことにしました。

「それで……わたしになにか用事?」

「いえあのその……用事は無いんですケド、
 いっしょに帰りたいな……なんて……だめデスカ?」

「別にかまいませんよ」

わたしの方まで調子が狂ってきました。

冬の早い夕暮れの道を、hさんと並んで歩きました。
hさんはしきりに、クラスの噂話やタレントの話をしてきます。
わたしは「うん、そうね」「そうなの」と、言葉少なに答えます。

相変わらず、hさんがなんのために話しかけてきたのか、謎でした。
クラスの事情に暗く、テレビも観ないわたしは、
自分でも面白い話し相手だとは思えません。

「hさん?」

「え、なんデスカ?」

「わたしと話していても、つまらなくない?」

「つまらなくなんかないデス!
 ……××さんは、つまらないんデスカ?」

しょげかえった様子のhさんに、どう返事したらいいものかと困惑しました。

「そういうわけじゃないけど……今まで話したことがなかったから、
 どうして今になって、って思ったの」

「本当はずっと前から話しかけようと思っていたんですケド……。
 ××さんカッコいいデス」

意外な評価に、わたしはぽかんとしました。

「格好良い? わたしが?」

「周りに流されない感じがして、なにがあっても平然としてるじゃないデスカ。
 わたしなんか、すぐオロオロドキドキしちゃうのに……」

「…………」

どういうわけか、過大評価されているようでしたけど、
うまく否定できる言葉が見つかりませんでした。

hさんを見ると、背中を丸めてうつむいています。
気弱そうな目立たない顔立ちです。
背は低くないのに、猫背のせいで姿勢が悪くなっていました。

「hさんは、背筋を伸ばした方が格好良いと思うよ」

「そ、そうデスカ?」

hさんの笑顔を見て、媚びるように笑わなくても良いのに、と思いました。

こうして、UとVはクラスが違っていたせいもあって、
hさんといっしょに下校することが多くなりました。
家でも学校でもほとんど無言を通していたわたしにとって、
ささやかな楽しみができました。

ある日、わたしがお昼に登校すると、担任に呼び出されました。
生徒指導室に入ると、担任が待っていました。

「失礼します。遅刻してすみません」

「呼び出したのはその話じゃないの。
 ××さん、定期テストや模擬テストぜんぜん受けてないでしょう?
 なんにも資料がないと、進路指導会議のとき困るんだ。
 体の具合が悪くなかったら、ここでテスト受けてくれない?」

担任は5教科分のテスト用紙を広げました。

「授業には出なくていいんですか?」

「今日はあとロングホームルームだけだから大丈夫。
 わからないところがあったら飛ばしちゃっていいから」

わたしは独りでテストを受けることになりました。
6限終了のチャイムが鳴って、先生が戻ってきました。

「どう、疲れてない? どれぐらいできたかな?」


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