302:
人間の、環境に適応する力は大したものです。
水深一千メートルの水圧に耐える深海魚のように、
終わらない地獄にも慣れることはできるのだ、と思いました。
深海の底に似た暗く静かな世界で、わたしは生きていました。
意識を半分は眠らせていたのかもしれません。
泥がかき混ぜられないように、なるべく家に居たくなくて、
遅刻してでも学校に行くことが多くなりました。
学校ではほとんど、自分の席で本を読んでいました。
本の中の世界は、わたしがページを閉じれば終わります。
わたしを脅かすことはありません。
高校受験が近づいて、周囲では勉強の話題が多かったようです。
その話の輪にわたしが加わることはありませんでした。
今のクラスには、親しい友達が居ません。
休み時間になると、わたしの席だけ、離れ小島になりました。
そんなある日、いつものように読書をしていると、
わたしに話しかける声がありました。
顔を上げると、見覚えのある顔のクラスメイトの女子でした。
少し考えて……hさんだ、と思い出しました。
わたしになんの用だろう、と疑問に思いながら、返事をしました。
「なに? hさん」
「ああよかった……。
なかなか返事してくれなくて無視されてるのかと思いマシタ」
hさんはおどおどした様子で、妙に焦っているようでした。
「クラスメイトなのに、どうして敬語を?」
「あはあはあは……。××さん、なんか怖くて……。
同い年の感じがしないんデス」
微妙に失礼なことを言われたような気がしましたが、
指摘すると余計に萎縮しそうだったので、聞き流すことにしました。
「それで……わたしになにか用事?」
「いえあのその……用事は無いんですケド、
いっしょに帰りたいな……なんて……だめデスカ?」
「別にかまいませんよ」
わたしの方まで調子が狂ってきました。
冬の早い夕暮れの道を、hさんと並んで歩きました。
hさんはしきりに、クラスの噂話やタレントの話をしてきます。
わたしは「うん、そうね」「そうなの」と、言葉少なに答えます。
相変わらず、hさんがなんのために話しかけてきたのか、謎でした。
クラスの事情に暗く、テレビも観ないわたしは、
自分でも面白い話し相手だとは思えません。
「hさん?」
「え、なんデスカ?」
「わたしと話していても、つまらなくない?」
「つまらなくなんかないデス!
……××さんは、つまらないんデスカ?」
しょげかえった様子のhさんに、どう返事したらいいものかと困惑しました。
「そういうわけじゃないけど……今まで話したことがなかったから、
どうして今になって、って思ったの」
「本当はずっと前から話しかけようと思っていたんですケド……。
××さんカッコいいデス」
意外な評価に、わたしはぽかんとしました。
「格好良い? わたしが?」
「周りに流されない感じがして、なにがあっても平然としてるじゃないデスカ。
わたしなんか、すぐオロオロドキドキしちゃうのに……」
「…………」
どういうわけか、過大評価されているようでしたけど、
うまく否定できる言葉が見つかりませんでした。
hさんを見ると、背中を丸めてうつむいています。
気弱そうな目立たない顔立ちです。
背は低くないのに、猫背のせいで姿勢が悪くなっていました。
「hさんは、背筋を伸ばした方が格好良いと思うよ」
「そ、そうデスカ?」
hさんの笑顔を見て、媚びるように笑わなくても良いのに、と思いました。
こうして、UとVはクラスが違っていたせいもあって、
hさんといっしょに下校することが多くなりました。
家でも学校でもほとんど無言を通していたわたしにとって、
ささやかな楽しみができました。
ある日、わたしがお昼に登校すると、担任に呼び出されました。
生徒指導室に入ると、担任が待っていました。
「失礼します。遅刻してすみません」
「呼び出したのはその話じゃないの。
××さん、定期テストや模擬テストぜんぜん受けてないでしょう?
なんにも資料がないと、進路指導会議のとき困るんだ。
体の具合が悪くなかったら、ここでテスト受けてくれない?」
担任は5教科分のテスト用紙を広げました。
「授業には出なくていいんですか?」
「今日はあとロングホームルームだけだから大丈夫。
わからないところがあったら飛ばしちゃっていいから」
わたしは独りでテストを受けることになりました。
6限終了のチャイムが鳴って、先生が戻ってきました。
「どう、疲れてない? どれぐらいできたかな?」