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翌日の放課後、j君がわたしの席の前に立ちました。

「××さん、今日の練習は屋上に集合だってさ」

「屋上で?」

「そうそう、発声練習らしい」

落語の演目を覚える以前に発声の仕方をマスターしておかないと、
喉を傷めてしまいます。

校舎の屋上はふだん安全のために出入りを禁止されていましたが、
落研が練習のために立ち入り許可を取ってあったのです。

屋上にあがって見下ろすと、
フェンス越しに様々な部活動の練習風景が一望できました。

k部長がよく通る声を響かせました。

「あえいうえおあお〜、かけきくけこかこ〜、あめんぼあかいなあいうえお〜。
 みなさんどうぞごいっしょにぃ〜」

みんなで声を揃えて練習しました。
次いで、一人ずつ順番に校庭に向かって声を張り上げます。
先輩だけでなく、j君やm君、nさんも美声でした。

わたしの順番は最後でした。
l先輩が耳を傾けて、アドバイスしてくれます。

「××さん、もっと下腹に力を入れて」

わたしの声は、自分でも哀れなほど弱々しく、か細く聞こえました。
k部長もj君も、可哀相な人を見る目でわたしを見ているかと思うと、
恥ずかしくて顔を上げられません。

練習を繰り返しているうちに、真っ先にわたしの喉がかれてしまいました。
みじめな気持ちでフェンスにもたれて休んでいると、隣にj君が来て空を見上げました。

「あんまり気にしなくていいよ。最初はあんなもんだって」

「……やっぱりわたし、向いてないんじゃないかな」

「まだ始めたばっかりじゃないか。あきらめるには早すぎるよ。
 俺はもっと酷かったかもしれない。元々上がり症だったからさ」

「信じられないなぁ……j君は才能あると思う」

「そんなことないよ。俺にもっと……姉貴ぐらい才能があればなあ……」

i先輩の伝説はその頃、噂話にうといわたしにさえ、漏れ聞こえていました。
曰く本校始まって以来の才女だとか、女帝だとか、スターだとか。
出来の良すぎるきょうだいを持つのは、なにかと大変なようです。

一見したところ、j君にはお姉さんに負けない才能があるように見えました。
教室でも、j君は自然にリーダーシップを発揮していました。

わたしたちの担任であるo先生は、倫理社会担当の若い男性教師でした。
教師の中では珍しい長髪で、破天荒なほどさばけた態度のせいか、
男女を問わず幅広い人気を集めていました。

生徒の自主性に任せる……というのがありがちな手抜きやお題目ではなく、
後ろからじっと見守ってくれるお兄さん的なオーラがありました。
o先生の影響か、クラスは後に異例な一体感を醸し出すことになります。

そんな雰囲気の中、ホームルームで議長を務めることになったj君は、
わたしを書記に指名しました。

「要点をまとめて議事録を書いてくれる? ××さん、そういうの得意でしょ?」

議長といったまとめ役は、面倒を押しつけられる損な仕事というイメージがありました。
それだけに、進んでまとめ役を引き受けるj君は珍しい存在でした。

中学の頃のaさんとは違って、自己顕示欲のせいだとは思えません。
j君は己の為すべき事を知っていて、淡々と実行に移しているようでした。

「では、次は生徒会選挙の議題です」

クラスのみんながいっせいに目を逸らせました。
生徒会執行部役員の選挙とは別に、クラスで代議員を選出しなくてはいけません。
みんな自分が推薦されるのを恐れているようでした。

女子の声があがりました。

「代議員はj君がいいと思いま〜す」

「発言の前には挙手してください。
 残念だけど、僕は代議員には立候補できません」

「え〜?」

「……執行部役員に立候補するつもりですから。
 さすがにいきなり会長、ってわけにはいきませんから、副会長に。
 クラスのみんなには、選挙期間中、応援をお願いします」

j君の宣言に、クラスがどよめきました。
それまで生徒会執行部の選挙では、候補者の頭数を揃えるのに苦労していました。
選挙といっても実質的には候補者一人ずつの信任投票になっていました。
新入生が副会長に立候補するなんて、まったく前例がありません。

j君は立候補の動機をクラスのみんなに語り始めました。
この高校は元々、自由な校風が伝統でした。
けれど、生徒会が人材不足のため実質的に機能せず、
学校行事の内容が教師の言いなりになりつつありました。

その傾向に警鐘を鳴らしたのが、j君のお姉さんである前会長のi先輩でした。
j君は先輩たちにやる気がないのなら、自分が生徒会を乗っ取ってやる、
と不敵に宣言しました。もし会長に立候補する先輩が居なければ、
自分は副会長ではなく会長に立候補する……とも。

j君の宣言は全校に波紋を広げました。
新入生に好き勝手言わせておいていいのか……という声があがり、
会長だけでなく、副会長以下にも複数の立候補者が名乗り出ました。

こうして、前例のない活発な選挙戦が始まりました。

ある朝、わたしは校門の所から、屋上に独り立つj君の姿を見かけました。
わたしはいつもの図書室ではなく、屋上を目指しました。

「おはよう、早いのね、j君」

j君は振り返らずに答えました。

「おはよう、××さんも早いね」

「通学ラッシュが嫌いだから、早めに登校して図書室で時間を潰してる」

「なるほど」

「j君は?」

「色々と考え事があってね」


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