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パジャマに着替えて、お兄ちゃんのベッドに座って待ちました。
お兄ちゃんは少し経ってから、髪を拭きながら戻ってきました。
なんだか気恥ずかしくて、お兄ちゃんの顔を見られませんでした。
「あれ? ○○。髪濡れたままじゃないか。風邪引くぞ」
いつもなら、ドライヤーでゆっくり髪を乾かすのですが、
今日は洗面所で歯を磨いただけでした。
「髪、乾かしてくる」
わたしは立ち上がりました。
すると、お兄ちゃんの手が肩に置かれ、また座らされました。
「ここに居ろ」
お兄ちゃんは、自分のドライヤーと整髪料を取り出しました。
スプレーされると、柑橘系の香りが漂いました。
お兄ちゃんが、ドライヤーのスイッチを入れました。
わたしの頭に、低温の風が当たりました。
お兄ちゃんはブラシと指を使って、黙々とわたしの髪を整えました。
頭が軽くなってきて、どきどきしていた胸も落ち着いてきました。
お兄ちゃんが隣にぼふっと腰を下ろし、わたしの肩を抱きました。
「なあ、○○」
胸に沁み入るような、しみじみとした声でした。
「なぁに?」
「今日はお前、変だったな」
「……変?」
「ああ、お前だけじゃない。俺も変だった」
「お兄ちゃんは、変じゃない」
「ありがと。でもおんなじだ。お前、淋しかったろ?」
それまで意識していなかった日常が、その言葉に照らし出されました。
お兄ちゃんの居ない、どこまでも平坦で、孤独な日々でした。
「……うん」
「俺もさ」
「え? お兄ちゃんは、お友達がいっぱい居るでしょ?
……Sさんも」
お兄ちゃんは髪をぼりぼり掻いて、しばらく沈思黙考しました。
「そりゃ、友達は大勢居る。親友と言っていいヤツも居る。
でもな……無条件で俺を好きでいてくれるかどうか、わからん。
それにSとは……たぶんもう、ダメみたいだ」
「ダメって……ケンカしたの?」
「ん、まあな。高校が別々になっちゃったし、
春休みだけでも一緒に居てくれ、と言われたのに、
こっちに帰って来ちゃったからな」
「……わたしの、せい?」
「バカ、そんなんじゃない。
あいつに俺のことを、信じさせてやれなかっただけだ。
暇を見つけて一緒にいたのにな。
昔の彼女に会いに行くんじゃないか、って疑われた。
もうCとは何の関係もないのに」
お兄ちゃんの声は、ひどく悲しげでした。
お兄ちゃんがどこか遠くに行ってしまうような気がして、
わたしはお兄ちゃんの胸に抱きつきました。
「Sさんのこと、そんなに好きだった?」
「ん……どうだろ。もう、わからなくなってきた。
俺が無条件に信じられるのは……○○、お前だけだ。
今日、久しぶりに顔を見て、大人びてるのにびっくりしたよ。
来月には中学生だもんな……。でも、お前はお前だった。
○○は、兄ちゃんを信じてくれるか?」
考えるまでもない問いでした。
「信じる。どんなことがあっても」
お兄ちゃんの腕が、ぎゅっとわたしを抱き締めました。
「うん。うん。ありがと。兄ちゃんはもう大丈夫だ。
お前は、ここでひとりでもやっていけるか?」
お兄ちゃんに期待されるのは、魂が震えるような喜びでした。
「だいじょうぶ。もう、何も怖くなくなった」
「何があっても、兄ちゃんはお前の味方だ。
それだけは忘れるなよ。誰よりも、お前が大切なんだ。
変な友達を作るんじゃないぞ。それだけが心配だ。
いじめられたり脅されたりしたら言え。そいつをぶっ殺してやる」
「お兄ちゃん……殺すのはダメ」
「はははは、冗談に決まってるだろ」
ちっとも冗談っぽく聞こえませんでした。
「今夜は、このまま一緒に寝よう。
明日からは、ひとりでも寝られるな?」
「うん」
電気を消し、お兄ちゃんと肩を並べて、ベッドに横になりました。
手と手をつないでいるだけなのに、心と心がつながっているような気がしました。
暗闇の中で、お兄ちゃんの囁くような声がしました。
「こっちには、入学式の前まで居るつもりだ。
それまで、いっぱい遊びに行こうな」
「うん……嬉しい」