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わたしが旗を置いて行こうとした時、3年生の男子がひとり、寄ってきました。
代わりに応援するから、旗を貸してほしい、と言うのです。
わたしはその子に旗を預け、集合場所に急ぎました。

集合場所で、練習の時と同じ、6列の行列を作りました。
係の人が、欠席者がいるから、1人ずつ前にずれるようにと言いました。
わたしの列から1人抜け、後ろから1人、入ってきました。

新しく入ってきた子を見て、わたしは幸運の女神が微笑んだ、と思いました。
その子は、わたしの2倍ぐらい体重がありそうで、わたしと同じぐらい、
走るのが遅かったのです。

もしかしたら、勝てるかもしれない、と思いました。

徒競走が始まりました。
列がだんだんと前に動いてゆき、わたしたちの順番が回ってきました。
わたしは、ピストルの音に集中しました。

ぱん、と乾いた音が鳴り、同時に前に飛び出しました。
10メートルも行かないうちに、わたしと新しい子の2人が、取り残されました。

ちらりと横を見ると、その子とほとんど並んでいました。
もう横を見ずに、前だけ見て、一心に脚を回転させました。
遠ざかっていく他の子たちは、もう関係ありませんでした。

少し体を斜めにしてカーブを走り抜けようとして、脚がもつれかけました。
よたよたと体勢を立て直すと、ゴール近くの保護者席が目に入りました。
歓声を上げる大人たちの中に、お兄ちゃんの姿はありません。

でも、どこかできっと、お兄ちゃんが見ている、とわたしは思いました。
後半になると、息が上がってきました。
酷使した脚が、肺が、悲鳴を上げています。

先行した4人は、とっくにゴールしていました。
それでも、歓声は鳴り止みませんでした。

隣の子よりわたしの方が速いのか、遅いのか、もうわかりません。
体にまとわりつく、水の中を走っているような気がしました。
ゴールにたどり着いたときは、走り抜けると言うより、
よろめいていたと思います。

ゴールしたらすぐに、出場門から出なくてはいけないのですが、
わたしは脚が重くて、それ以上一歩も進めなくなりました。

その場にしゃがみ込み、息を整えようとしましたが、
吸い込もうとしても、空気がなかなか入ってきません。

目の前に、スラックスを穿いた足が現れました。先生でした。

「よく頑張ったね!
 ちゃんとゴールの写真、撮ったから」

わたしはやっとのことで、返事をしました。

「……な、何位でしたか?」

「5位よ。
 ほとんど差がなかったけど、最後まで諦めなかったせいね」

わたしは思わず、立ち上がりました。
やった!と跳び上がりたい気分でした。

先生に手を引かれて、出場門をくぐり、救護所に行きました。
酸素スプレーを吸わせてもらって、5分ほど休んでから、
応援の持ち場に戻りました。

歩きながら、手紙と写真を見るお兄ちゃんの顔を想像して、
自然に顔がにやけてきました。

持ち場に戻ると、3年生のクラスの様子がおかしいのに気づきました。
誰も旗を振っていませんし、声も出していません。
みんな下を向いて、わたしと目を合わせようとしません。

わたしは近くにいた女子に、声を掛けてみました。

「どうしたの?」

「……あの、N君が、旗を壊しました」

「え?」

女子が指さす方を見ると、みんなから少し離れた後方に、男の子がひとり、
立っていました。
手に、二つに折れ曲がったわたしの旗を、持っています。

わたしは男の子に歩み寄りました。
わたしが近付くと、男の子は顔を上げました。
べそをかいていました。

「どうしたの?」

「ぼく、ぼくがっ……壊しました」

男の子は、えぐえぐと泣き出しました。

「落ち着いて、話して」

聞いてみるとどうやら、旗を奪い合っているうちに折れてしまったようでした。
棒が柾目になっていなかったので、横からの力で折れやすくなっていたのです。
わたしは男の子の頭に手を置いて、言いました。

「いいの。
 あれは、初めから壊れやすかったみたい。
 もう応援も終わりだし。
 正直に言ってくれたから、怒ってない。
 泣かなくって、いい。
 これから、借りた物は大切にするって、約束してくれる?」

男の子は泣きやんで、「うん」と言いました。

弟を慰めるのは、こんな気持ちだろうか、とわたしは思いました。
こうして、わたしの最後の運動会は、終わりました。


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