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わたしは舌が麻痺したみたいに、言葉を口にできませんでした。
前から尋ねようと決めていたのに、心がくじけそうでした。

胸が締めつけられて苦しくて、ハァハァと息が荒くなりました。
目をつぶると、お兄ちゃんの手が、ゆっくりと髪を撫でました。

「お兄ちゃん……」

「無理して言わなくていいぞ?」

その声が、拒絶ではなく慰撫に満ちていたので、わたしはホッとしました。

「2年前のこと」

「2年前?」

お兄ちゃんは、怪訝そうに訊き返してきました。

「2年前……お兄ちゃんがこのいえを出ていく前……
 よく、夜中に出かけたよね?」

「あ、ああ……」

一度口に出してしまうと、後はすらすらと続けることができました。

「お兄ちゃん、喧嘩強かったんだってね。いつも喧嘩してたの?」

「お前……だれに聞いたんだ? cか?」

「cさんは関係ない。お兄ちゃんのこと、噂になってたんだよ?
 街で女の子が絡まれてるの、何回も助けたって。
 名前言わなくても噂になるよ。その時、喧嘩したんでしょ?」

「…………」

心の中で、違う、こんな責めるみたいな口調で言いたいんじゃない、
と思っても、胸の奥の熱くて苦しい塊から、言葉が飛び出して行きました。

「困っている人を助けるのは、立派だと思う。
 弱い者いじめしてる人を殴っても、だれも非難しない。
 ……それが1回なら、偶然かもしれない。
 でも! 何回も助けるのは、偶然じゃ……ない。
 お兄ちゃん……殴る相手を探して、歩いてたんじゃないの?
 ……自分の鬱憤を晴らすために」

お兄ちゃんは、凍りついたように静止していました。
切り裂くような静寂が、わたしとお兄ちゃんの周りを支配しました。

こんなに近くに居るのに、お兄ちゃんがずっと遠くに感じられて、
わたしは目の前の広い胸に、こわごわ手のひらを当てました。

ドッドッと脈打つ心臓と、呼吸に上下する胸郭とが、
かえってお兄ちゃんとわたしの隔たりを感じさせました。
体に触れていても、心までは見えません。

わたしは、最後に残った熱い欠片を吐き出しました。

「……わたし、2年前はなんにもわからなかった。
 でも、今は、知りたい。本当のことを。
 答えて、お兄ちゃん。お願い」

口の中がからからに干上がって、それ以上なにも言えなくなり、
わたしは仄暗い灯りに光るお兄ちゃんの目を凝視しました。

1呼吸1呼吸が永遠に思えて、時間の感覚がなくなりかけた頃、
お兄ちゃんがぼそりとつぶやきました。

「そうだ」

お兄ちゃんは荒っぽい手つきで、わたしの髪を掻き回しました。

「もっと前からだ」

「え?」

「中学に上がって、さっそく喧嘩を売られたよ。
 ……俺はなんにもしてないのにな。
 返り討ちにして、ボコボコにしてやった。
 スカッとした。
 あのとき相手が死ななかったのは運が良かった。
 まだ手加減を覚えてなかったからな……」

お兄ちゃんは歯を剥き出して、ニヤリと笑いました。

「それからだ。喧嘩を買って歩くようになったのは。
 簡単だった。道を偉そうに歩いているヤツがいたら、
 すれ違うときに睨みつけるんだ。
 たいてい『なんだコノヤロウ』って突っかかってくる。
 後は裏通りに連れ込まれて……殴る。
 最初の頃は負けそうになることもあった。
 こりゃ勝てない、と思ったら全力で走って逃げた。
 俺は足が速かったからな。追いつかれたことは一度もない。
 同じ中学のヤツとはなるべく喧嘩しなかったんだが、
 2年になる頃には、俺が学校のあたまってことになってた。
 学校では真面目にしてたんだけどなぁ……。
 余所の学校との揉め事を持ち込まれるようになっちまって、
 こうなると下手に喧嘩を買う訳にはいかなくなった。
 とうとう、夜中に抜け出して、隣の街に遠征するようになった」

お兄ちゃんは大きくため息をついて、わたしの髪の毛を、
ぎゅっと握りしめました。

「お前の言うとおりだ……俺は憂さ晴らしに人を殴った。
 ○○、俺が恐いか? ……軽蔑するか?」

凄みのある表情と声なのに、お兄ちゃんの目は哀しげに細められていて、
泣いているようにも見えました。


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