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朝になると、クチナシの匂いが病室に籠もっていました。
検温に来た看護婦さんが、窓を少し開けました。
Qさんが来て、月曜日に部屋を移ることになった、と言いました。
わたしが始終、入り口の方ばかり窺っていたので、Qさんがにやにやしました。
「面会時間が始まったら、すぐに来るわよ〜。
○○ちゃんの愛しい人は」
「……!」
わたしが赤くなってそっぽを向くと、Qさんは調子に乗りました。
「お兄ちゃん格好いいもんね〜。
デートに誘ってみようかな?」
「ダメ!」
「……そんな怖い顔しなくても、冗談冗談。
さすがに中学生に手を出すほど落ちぶれてません。
まあ、あなたもそうだけど、大人っぽくは見えるけどね」
まだ未練のあるようなことを言うので、どこまで冗談か、わかりませんでした。
面会時間が来てすぐ、お兄ちゃんが姿を現しました。
白い発泡スチロールの小さな箱を、手に持っていました。
「お兄ちゃん、おはよう」
「おう、○○、今日は起きてたんだな」
「その箱、なに?」
「お土産だ。なんだと思う?」
お兄ちゃんは、意地悪そうな顔をしていました。
どうやら、すんなり教えてくれそうにはありませんでした。
軽そうに持っているところを見ると、本ではなさそうです。
お花だったら、わざわざ箱に入れる必要はありません。
保冷ボックスに入れた、アイスクリームのような気もしましたが、
わたしに食べられない物を、お土産に持ってくるはずがありません。
わたしが顔をしかめて、ずっと無言で考え込んでいると、
お兄ちゃんの方が焦れてきました。
「あのなあ……なんでもいいから、パッと言っちゃえよ」
「……魚」
「はあ?」
「お魚、熱帯魚を、液体窒素に入れて凍らせるの。
水槽に入れると、生き返ってまた泳ぎ出す……。
そんなのを、テレビで見たことある」
「……」
お兄ちゃんは、疲れ切ったおじさんみたいに、椅子に腰を下ろしました。
「液体窒素なんて、どこで買ってくるんだよ……」
置かれた箱の蓋を開けると、中にはラップしたガラスの器が入っていました。
器の下には、氷が敷き詰めてあります。
「すり下ろしたリンゴだ。
蜂蜜を掛けて冷やしてある。
これなら食べられるだろ?」
「綺麗……」
思わず声が漏れました。半透明の、模様の入ったガラスの器を取り出すと、
よく冷えているのがわかりました。
一緒に入っていた洋銀のスプーンで、一匙すくいました。
ひとりで食べるのは気が引けたので、お兄ちゃんに差し出しました。
「はい」
「え? あ、俺はいいよ」
「まだ、たくさんあるから」
手を引っ込めないでいると、お兄ちゃんはぱくりとスプーンをくわえました。
「ん、んまい」
「自分で言ってる……」
わたしはくすくす笑いながら、スプーンを引き抜き、自分も一匙頬張りました。
冷たいリンゴの酸味が、蜂蜜の甘さと絡み合い、口の中でとろけました。
この時から、すり下ろしリンゴの蜂蜜掛けは、わたしの一番の好物になりました。
今でも、食べると思わず胸がいっぱいになります。
午後からは、わたしが疲れてはいけないと、もっぱらお兄ちゃんが喋りました。
新しい学校での友達のこと。体育祭の徒競走で、やっぱり一番だったこと。
また告白されたが、受験があるからと断ったこと。
「まだ、Cさんが忘れられない……?」
「はは、そんなことないさ。
でもあの子もけっこう可愛かったから、惜しいことしたかな……」
お兄ちゃんの鼻の下が、なんとなく伸びているような気がしました。
「いてて! おい、つねるなよ、冗談だって」
「今、いやらしい顔、してた」
「しょうがないだろ、俺だって男なんだから……」
そう言うお兄ちゃんは、どきりとするほど、男らしい顔をしていました。