50:


「腹減ってないか?」

お腹は空っぽでしたが、空腹感はありませんでした。

「少し痩せたみたいだし、ちゃんと食わないとな」

お兄ちゃんが出て行って、わたしはまた、うとうとしました。
しばらくすると、土鍋を持ったお兄ちゃんが帰って来ました。

「お粥だ」

お兄ちゃんの手を借りて、わたしは上体を起こしました。
軽い目眩がして、頭がくらくらしました。

お兄ちゃんはレンゲでお粥をすくって、ふーふーしました。
目の前に来たレンゲの中を見ると、透けて見えるほど薄いお粥でした。

口を開けると、レンゲが入って来ました。
ほぐした鶏を煮込んで、薄く味付けた鶏粥でした。

砂に水が滲み込むように、美味しさが全身に行き渡りました。

「美味しい……」

「そうかそうか。どんどん食べろ」

わたしが大きく口を開けると、またレンゲが近付いてきました。
急にレンゲが引き戻されて、お兄ちゃんがぱくりと口に入れました。

「……?」

「ははは、ホントに美味しいな」

わたしが口を開けたままでいると、お兄ちゃんはうなだれました。

「……ごめん」

わたしがくすくす笑うと、お兄ちゃんも笑顔になりました。

「なんか、雛鳥に餌やってるみたいだな」

数日のあいだは、トイレに行くのにも、お兄ちゃんの肩を借りなければ
なりませんでした。

わたしたちは、お盆が過ぎれば父方のお婆ちゃんの家に戻る予定でしたが、
わたしの療養のために、夏休み中ここにとどまる事になりました。

毎日お兄ちゃんは、わたしの傍らで勉強していました。
時々ちらちらと、こちらに視線を向けました。
わたしは布団に横になって、お兄ちゃんの横顔を眺めました。

「お兄ちゃん」

「ん? どした?」

「お兄ちゃんは帰らなくていいの?
 夏期講習、あるんでしょ?」

「勉強はここでだってできるさ。
 勉強道具も一式持ってきたしな。
 お前が寝ていると思ったら、おちおち勉強してらんないよ」

ごめんなさい、と言うとお兄ちゃんが怒ると思って、こう言いました。

「ありがとう、お兄ちゃん。
 わたし、しあわせ……」

お兄ちゃんと毎日ずっと一緒に居られて、嬉しいのは確かでした。
でも、早く元気になって、お兄ちゃんと遊びに行きたい、と思いました。
お兄ちゃんに気遣われるばかりでは、情けなかったのです。

数日経って、不意にお兄ちゃんが、勉強の手を止めて言いました。

「○○、退屈じゃないか?」

「……別に」

お兄ちゃんは立ち上がり、首をこきこき鳴らしました。

「んー。俺はずっと座って勉強してると血が騒ぐなあ。
 気分転換になんかしたいよ。
 ……そうだ。
 奥の間に本棚があったから、
 なんかお前が読む本ないか見てくる」

戻ってきたお兄ちゃんは、1冊の本を手にしていました。
文庫本ではなく、ハードカバーでした。

「ろくな本なかったなあ。
 辞書とか分厚い家庭の医学とか、雑誌ばっかりだ。
 小説はこれぐらいだった」

お兄ちゃんが、かなり古びた本の表紙を見せました。
三浦綾子の『氷点』でした。

お兄ちゃんは枕元に胡座をかきました。

「読んでやろう……なんか懐かしいな。
 お前、昔は風邪引いた時、
 絵本を読んでくれってよく言ってたっけ」

「え?」

「そっか、覚えてないか……。
 お前が何かをおねだりしたのは、あの時ぐらいだったのにな」


残り127文字