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「腹減ってないか?」
お腹は空っぽでしたが、空腹感はありませんでした。
「少し痩せたみたいだし、ちゃんと食わないとな」
お兄ちゃんが出て行って、わたしはまた、うとうとしました。
しばらくすると、土鍋を持ったお兄ちゃんが帰って来ました。
「お粥だ」
お兄ちゃんの手を借りて、わたしは上体を起こしました。
軽い目眩がして、頭がくらくらしました。
お兄ちゃんはレンゲでお粥をすくって、ふーふーしました。
目の前に来たレンゲの中を見ると、透けて見えるほど薄いお粥でした。
口を開けると、レンゲが入って来ました。
ほぐした鶏を煮込んで、薄く味付けた鶏粥でした。
砂に水が滲み込むように、美味しさが全身に行き渡りました。
「美味しい……」
「そうかそうか。どんどん食べろ」
わたしが大きく口を開けると、またレンゲが近付いてきました。
急にレンゲが引き戻されて、お兄ちゃんがぱくりと口に入れました。
「……?」
「ははは、ホントに美味しいな」
わたしが口を開けたままでいると、お兄ちゃんはうなだれました。
「……ごめん」
わたしがくすくす笑うと、お兄ちゃんも笑顔になりました。
「なんか、雛鳥に餌やってるみたいだな」
数日のあいだは、トイレに行くのにも、お兄ちゃんの肩を借りなければ
なりませんでした。
わたしたちは、お盆が過ぎれば父方のお婆ちゃんの家に戻る予定でしたが、
わたしの療養のために、夏休み中ここにとどまる事になりました。
毎日お兄ちゃんは、わたしの傍らで勉強していました。
時々ちらちらと、こちらに視線を向けました。
わたしは布団に横になって、お兄ちゃんの横顔を眺めました。
「お兄ちゃん」
「ん? どした?」
「お兄ちゃんは帰らなくていいの?
夏期講習、あるんでしょ?」
「勉強はここでだってできるさ。
勉強道具も一式持ってきたしな。
お前が寝ていると思ったら、おちおち勉強してらんないよ」
ごめんなさい、と言うとお兄ちゃんが怒ると思って、こう言いました。
「ありがとう、お兄ちゃん。
わたし、しあわせ……」
お兄ちゃんと毎日ずっと一緒に居られて、嬉しいのは確かでした。
でも、早く元気になって、お兄ちゃんと遊びに行きたい、と思いました。
お兄ちゃんに気遣われるばかりでは、情けなかったのです。
数日経って、不意にお兄ちゃんが、勉強の手を止めて言いました。
「○○、退屈じゃないか?」
「……別に」
お兄ちゃんは立ち上がり、首をこきこき鳴らしました。
「んー。俺はずっと座って勉強してると血が騒ぐなあ。
気分転換になんかしたいよ。
……そうだ。
奥の間に本棚があったから、
なんかお前が読む本ないか見てくる」
戻ってきたお兄ちゃんは、1冊の本を手にしていました。
文庫本ではなく、ハードカバーでした。
「ろくな本なかったなあ。
辞書とか分厚い家庭の医学とか、雑誌ばっかりだ。
小説はこれぐらいだった」
お兄ちゃんが、かなり古びた本の表紙を見せました。
三浦綾子の『氷点』でした。
お兄ちゃんは枕元に胡座をかきました。
「読んでやろう……なんか懐かしいな。
お前、昔は風邪引いた時、
絵本を読んでくれってよく言ってたっけ」
「え?」
「そっか、覚えてないか……。
お前が何かをおねだりしたのは、あの時ぐらいだったのにな」