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病室は6人部屋で、他のベッドもみんな埋まっていました。
お兄ちゃんが丸椅子から立ちあがって、小声で言いました。
「何か持ってきてほしいものはないか?」
「うん、考えとく。たいてい売店で揃うから」
病室のベッドに横になると、ほっと落ち着きました。
自宅に居るよりも、のびのびと背筋を伸ばせるような気がします。
看護婦さんも、新人さん以外はほとんど顔なじみでした。
わたしは病院での生活に、慣れすぎていたのかもしれません。
「それじゃ、またな」
「またね、お兄ちゃん」
ひとりになったわたしがうつらうつらしていると、
主治医のO先生がやってきました。
見たことのない顔の、中年の太った優しそうなおばさんといっしょに。
病院で患者さんの相談に乗るのが仕事だと、おばさんは自己紹介しました。
「○○ちゃん、入院費のことはもう心配しなくていいからね。
特定疾患補助制度というのがあって、
重い病気だと行政から補助金が出るの。
手続きが終わったら、保険診療の分は全部無料になるから」
小児科の慢性腎炎は難病の一種で、特定疾患に該当することを、
わかりやすく説明してくれました。
先日の退院騒動があって、O先生が手を回してくれたようです。
「ごめんなさいね。もっと早く手続きを申請すればよかった」
そう言って、O先生がわたしに頭を下げました。
「いえ、先生、色々とありがとうございました」
あの父親に医療費のことで何も言われる心配がなくなって、
わたしは心が軽くなりました。
お兄ちゃんの他に見舞いに訪れるのは、UとVぐらいでした。
3年生になってからは、学校にも数えるほどしか行っていません。
クラスメイトにも担任の先生にも、まだ馴染んでいませんでした。
しばらく経って、UとVが連れ立ってお見舞いに来ました。
千代紙をたくさん持ってきていて、枕元で鶴を折りはじめました。
「なにしてるの?」
「見てわからんか? 千羽鶴を折ってるんや。アンタも暇やったら手伝い」
Vは折り紙に熱中していました。
お見舞いされる本人が折ってもいいものだろうか、と疑問が浮かびましたけど、
暇つぶしにはちょうどよかったので、三人で折りました。
Uが手を動かしながら、つぶやきました。
「あんまし来れへんでごめんな」
「いいよ、二人とも。受験勉強で忙しいんでしょ?
新しいクラスで友達できた?」
「うん、新しい友達はできたけど、やっぱし昔のわたしらみたいにはいかんな。
みんな受験で目の色変わってるしな。アンタとUは、特別やで」
「ありがと……わたしもそう思ってる。VはXさんに勉強みてもらってるの?」
「うん……」
Vの顔が見る見る赤くなりました。鶴を折る手つきまであやしくなっています。
わたしの失恋を知ってから、VはXさんのことをあまり話さなくなっていました。
わたしに気を遣っていたのでしょう。
口数が減ると、Vは文句のつけようのない美少女でした。
高校生にも見えるくらい大人っぽい体つきになっていて、
匂うような乙女の色気がありました。
わたしはわざと、茶化すように言いました。
「Uも大変ね。いつもVとXさんのラブラブに当てられてるんでしょ?」
「そうでもないで。前ほどベタベタせんようになったわ。
前はホンマ暑苦しかったもんな〜」
Vがぷっと膨れて、無言でUを睨みつけました。
わたしは取りなすために、Vの味方をすることにしました。
「妬かなくてもUには優しいお兄さんがいるじゃない。
受験勉強の手伝いにこき使ってるんじゃない?」
すると、Uの顔が渋いお茶を飲んだようにしかめられました。
Vの表情も、一転して曇りました。
「いや……まぁ、その、な」
言いにくそうに口を濁すUを見ていると、
わたしは何かまずいことを言ってしまったのか、と不安になりました。
「あのな……アンタにはまだ話してへんかったけど、
兄ぃはもう家におらへんねん」
「えっ?」
「第一志望の大学に滑ってしもて、実家のある地元の滑り止めに入ったんや。
今は婆ちゃんの家に下宿してる」
「知らなかった……」
「ごめんな、隠すつもりやなかったんやけど、アンタ春頃バタバタしてたやん。
大変そうやったから、気を遣わせたらあかんと思うてな。
ちょくちょく帰ってくるて言うてたしな」
「そうだったの、U、寂しいね」
「ホンマに……あんなダメ兄貴でも、おらんようになると寂しいもんやな。
アンタの気持ちが少しわかったような気がするわ」