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わたしはベッドから降りましたが、意識が途切れかけていました。
お兄ちゃんはベッドに腰掛けて、わたしを開いた膝のあいだに座らせました。

「眠くなったらもたれて寝て良いからな」

そう言って、お兄ちゃんはドライヤーのスイッチを入れました。
ドライヤーの生暖かい風で髪をなぶられ、お兄ちゃんの指を頭に感じると、
ふっと気が遠くなりそうでした。

お兄ちゃんのがっしりした胸に背中を預けると、体じゅうの力が抜けて、
ぐにゃぐにゃの生き物になったようでした。

「なんか良い匂いするな」

お兄ちゃんの鼻が、自分の首筋に埋められるのがわかりました。
わたしは、今寝たら勿体ない!……と思って必死に睡魔と闘いましたが、
いつの間にか眠りの中に引きずり込まれていきました。

ふと目が覚めると、まだ真っ暗でした。夜明け前だったのです。
上体を起こして見回しても、当然のようにお兄ちゃんの姿はありません。

わたしは朝に弱いので、早起きするお兄ちゃんの寝顔を見た覚えが
ほとんどありませんでした。チャンスだ、と思いました。

そっと部屋を抜け出して、お兄ちゃんの部屋の前に立ちました。
ノブをゆっくり回してみると、鍵はかかっていません。
音を立てないようにドアを開けて、中に滑り込みました。

お兄ちゃんは寝るとき、真っ暗にするのが嫌いらしく、
小さな赤いライトが点けたままでした。
薄暗い光に照らされたお兄ちゃんの寝顔は、死人のように静かでした。

足音がしないように抜き足差し足でベッドに近づきました。
お兄ちゃんは目を覚ましません。
間近に見ると、少し口を開けて、呼吸をしているのがわかりました。

暑かったのか、タオルケットはどこかに行っていました。
肩の見えるTシャツと、ショートパンツしか身に着けていません。

首もとすれすれに鼻を近づけると、かすかに汗くさいような、
複雑なお兄ちゃんのにおいがしました。

物言わぬお兄ちゃんの顔を見ていると、愛しさで胸が一杯になりました。
熱いかたまりのようなものが、喉元まで上がってきて、
キスしたくてたまらなくなりました。

でも、意識のないお兄ちゃんの唇を奪うのは、卑怯だと思いました。
わたしは声が漏れないように、大きく深呼吸して、回れ右しました。

部屋に戻ったわたしは、緊張が抜けてベッドの上でぐったりしました。
タオルケットをかぶって丸くなり、固く目をつぶりました。
頭を空っぽにしてもう一度眠りにつくのには、ずいぶん時間がかかりました。

再び目覚めると、明るくなっていました。
わたしはしばらくぼんやりと、昨日のことや、買い物に行った日に
思いを巡らせました。

これといったきっかけもなく、絶望感が胸にあふれました。
わたしはいつだって、お兄ちゃんの足手まといだ、と思いました。
目の奥から、熱いモノがこみ上げてきました。
わたしは流れる涙を拭いもせず、ただ声もなく泣きました。

コンコン、と控えめなノックの音がしました。

「○○、もう起きてるか?」

わたしはハッとして、返事をしました。

「あ、すぐ行く……」

でも、出た声は鼻声になっていました。

「○○、風邪引いてるのか? 入るぞ」

わたしはタオルケットをかぶって、丸くなりました。
お兄ちゃんの手が、背中に置かれました。

「どうした? 熱あるのか? 顔見せてみろ」

わたしは抵抗しましたが、タオルケットを剥がれてしまいました。
肩を掴まれて、上を向かされました。
顔を背けても、泣きはらした目は隠せませんでした。

「お前……泣いてたのか?」

驚いた声でした。お兄ちゃんにも、訳がわからなかったのでしょう。

「いつも、泣いてるのか?」

大きな手が、頭に乗せられました。
わたしはその手を取って、払いのけました。

「わたし……もう子供じゃない」

「何を言ってるんだ?」

「昨日もその前も、お兄ちゃんに手間をかけてばっかり……。
 わたし、負担でしょう?
 泣いたのは……今日が初めて。情けなくて」

お兄ちゃんは、ベッドに腰を下ろして、しばらく黙っていました。

「○○は、そんなこと気にしてたのか……。
 負担なんてことない」

「でも……」

「お前は、昔からずっと大人だったよ。
 恥ずかしいから今まで黙ってたけど、昔話をしよう」

「……?」

「お前が俺を助けてくれた話だ」


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