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闇の中をひとり、どこへ行き着くのかも知らず、前へ前へと歩きました。
風の冷たさも、足の痛みも、わたしには関わりのない出来事でした。
天と地のあいだで、わたしはひとりぼっちでした。

それはこの先ずっと、変わらないだろうと思いました。
わたしの心の核は死んでしまって、融けない氷に占められてしまいました。

道は行き止まりでした。
わたしはなにも考えずに回れ右して、元来た道を戻りました。
もともと、どこにも行く場所はなかったのです。

お婆ちゃんの家の前に来たとき、東の空は明るんでいました。
遠くからでも、玄関の前に立つお兄ちゃんが見えました。
どれぐらい前から、そこで待っていたのかわかりません。

顔色を見分けられるぐらいに近づいて見ると、
お兄ちゃんは明らかにホッとした表情をしていました。

「○○……どこに行ってたんだ? 心配したぞ」

その声に、わたしを咎めるような響きはありませんでした。
わたしは手を伸ばしても届かない距離で、立ち止まりました。

このまま足を止めなければ、抱きしめてくれるだろう、と思いました。
でもそれは、避けなければなりませんでした。
ゆっくり一呼吸のあいだ見つめ合って……わたしは口を開きました。

「わたし、今日帰る」

「え? まだ来たばっかりじゃないか」

「わたし、まだ、ふつうの妹の顔ができないから……。
 わだかまりがなくなって、当たり前の妹として会えるようになったら、
 また会いに来るね。それまでは……離れてたほうが良いと思う。
 そうでしょ? ……兄さん」

初めてお兄ちゃんを他人行儀に「兄さん」と呼んだ瞬間、
わたしの胸は見えない刃に切り裂かれました。
その痛みを無視して、わたしはお兄ちゃんの横を素通りしました。

お兄ちゃんは後を追ってきませんでした。
わたしは冷え切った体を熱いシャワーで温めてから、
客間に敷かれた布団に入りました。

疲れているはずなのに、眠たくはありませんでした。
それでも、だれにも邪魔をされずに天井の羽目板を眺めていると、
いつの間にかわたしは寝入っていました。

なにか夢を見たような気がしましたけど、目が覚めた刹那に忘れました。
起きあがると、もう昼過ぎでした。
着替えて居間に出ていくと、F兄ちゃんが満面の笑顔でわたしを迎えました。

「○○、よう来たよう来た。来るて言うてくれたら迎えに行ったのに。
 ……? 顔色悪いな。旅行で疲れたんか?」

「はい……少し。わたし、これから帰ります」

F兄ちゃんの心配そうな渋面が、驚きに変わりました。

「なんやて? 昨日来たばっかしやないか。もう帰るんか。
 ……△△と、なんかあったんか?」

家の中に、お兄ちゃんの気配はありませんでした。

「なんにも……なんにもなかった。
 お兄ちゃんやF兄ちゃんの顔を見に来ただけだから……。
 友達と遊ぶ約束してるし……」

「そうか……。どっか遊びに連れてったろと思ってたんやけど。
 しゃあないな。帰るんやったら俺が送っていったろ」

わたしはそそくさとお婆ちゃんや曾お婆ちゃんに別れを告げ、
F兄ちゃんの運転する車に乗りました。
途中でレストランに寄って食事をしましたけど、
わたしは話しかけられても上の空でした。

田舎に来る途中は、ひとつのことばかり考えていました。
いまは考えることがなにもなくなって、空っぽになったようでした。
機械的な判断力だけが、わたしを操縦して自宅に連れ戻してくれました。

灯りの点いていない自宅は、暗い墓標のようでした。
体の重苦しさも、刺すような空腹感も、わたしには関係ありません。
郵便受けに入っていた不在配達票を、丸めてゴミ箱に捨てました。

このまま寝てしまおうか……と思いながら電話のそばを通ったとき、
ふとUとVの顔が脳裏に浮かびました。
UとVにも、お兄ちゃんとのことは話せません。

でも、2人の明るい声を聞いたら、少しは心が融けるかもしれない、
と思いました。電話機の前でためらったあげく、Uの家に電話をかけました。
電話に出たのはYさんでした。

「Uは出かけてるんだ。○○ちゃんも一緒かと思ってた。
 ……風邪でも引いたの? 声が変だけど」

「いえ、なんでもありません。またかけます」

今度はVの家にかけました。Vのお母さんは妙にはしゃいでいて、
Vに取り次いでもらうのに苦労しました。

「V、こんばんは……」

「○○ちゃ〜ん! 田舎からわざわざ電話してくれたの〜?」

Vは最初からハイテンションで、耳が痛くなるほどでした。

「う……うん」

「あのねあのね、聞いてくれる〜?」

「うん……なにかあったの?」

「えへへへへ〜。みんなにはまだナイショだよ〜?」

「Uにも?」

「Uちゃんと○○ちゃんは特別〜」

「わかった」

「あのね……わたし昨日、おにーちゃんと婚約したの〜!」

「婚約?」

わたしは唖然としました。


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