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戸惑ったような、お兄ちゃんの声がしました。

「○○……」

わたしは目蓋を開けて、言いました。

「だいじょうぶ。なんでもない」

ポーチから腕時計を取り出して、文字盤を見ました。

「そろそろ、時間?」

「ああ」

「じゃあ、行きましょ」

トレイをカウンターに戻して、カフェを出ました。
駅の入り口の手前で、お兄ちゃんが立ち止まりました。

「ここまででいいよ。キリがなくなる」

心なしか、お兄ちゃんの声が寂しげに聞こえました。
振り向いたお兄ちゃんに、わたしは微笑みかけました。

「うん……じゃあ、お兄ちゃん、行ってらっしゃい」

「ん……行ってくる……えっとな、○○」

「なに?」

「友達、いっぱいできるといいな。でも、あんまり無理すんなよ」

「うん」

「じゃな」

お兄ちゃんは軽く手を振って、歩み去って行きました。
わたしはお兄ちゃんが見えなくなるまで、その場で見送りました。

お兄ちゃんの背中が見えなくなっても、じっと立っていました。
電車を降りて駅から出てきた人たちが、わたしの両側を通り過ぎました。

どれぐらいそうしていたのか、はっきりしません。
我に返るとわたしは、しぼんだ風船になったような気がしました。
大きなため息が、自然に出てきました。

「はぁ……行っちゃった」

さっきまでの元気が、お兄ちゃんといっしょに旅立ってしまったようでした。
わたしは口の中でつぶやきました。

「ダメだな……こんなじゃ」

無理に笑顔を作ろうとしても、変に顔がひきつるだけでした。

そのあと、どんなふうにして家に帰ったのか、記憶がありません。
ビデオを早送りしたように、場面が変わっていきます。

Uが怪訝そうな声で、わたしに呼びかけました。

「……○○? どないしたんや」

「……! あ、なに?」

Vの部屋でした。Vは向こうでうつぶせになって、ぐったりしています。

「なにやあらへんで、人の話聞いてるか?」

「……ごめん。ぼうっとしてた」

「アンタ、ホンマにおかしいで? Vはアレやし……」

「どうしたの?」

「聞いてなかったんかいな! Xの兄ちゃんに追い出されたんやて。
 勉強にならへんから当分来るな、って」

「なるほど。受験勉強の邪魔したの? V」

「ううー。おにーちゃん冷たいよー」

「自業自得やろ……それより○○、宿題は持ってきたんか?」

「うん……言われたとおり、全部持ってきたけど」

「じゃあ、ぼちぼち宿題片付けよか」

「わたしはもう終わっちゃったよ?」

「わたしはまだやねん。写さして、な?」

Uが拝むように両手を合わせました。

「良いけど……どれぐらい済んでるの?」

Uが黙って差し出した宿題のプリントを見ると……。

「……まだなんにも出来てないじゃない」

わたしはさすがに呆れました。

「今から自力でやって終わらせるのはムリや」

Uは力一杯断言しました。

「あのねぇ……自信たっぷりに言うことじゃないでしょ?
 読書感想文はどうするつもり?」

「へ?」

国語の宿題は、課題図書として選ばれた3冊の小説のうち1冊を読んで、
感想文を書くことになっていました。

「わたしのでもVのでも、そのまま写したら、
 丸写しだってバレバレだよ?」

「あ……」

Uはぜんぜん考えていなかったようです。
その時わたしの頭に、意地の悪い考えが浮かびました。

「実はひとつ、解決策があるんだけど」

「なんや?」

「わたし、課題図書3冊とも読んでたから、感想文も3つ書いた。
 そのうちの1つをあげようか?」

Uの顔がパッと輝きました。

「おお……ナイスや。持つべきものは友達やなぁ……」

「その代わり、条件があるんだけど」

Uはしぶしぶといった調子で答えました。

「うー……そうきたか。この際やから、パフェぐらいおごるで」

「パフェは要らない。それより、お兄さんを一日貸してくれる?」


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