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その日は、夜遅くまでお兄ちゃんの枕元に付き添いました。
いつもとは逆の立場でした。
わたしの覚えている限り、お兄ちゃんは病に伏せった事がありません。
目を離していると、お兄ちゃんがまた居なくなってしまうかもしれない……
そんな不安がありました。
疲れのあまり、わたしがうつらうつらしはじめると、
眠っていると思っていたお兄ちゃんが、腕を伸ばしてきました。
ゆっくりと頭を撫でられて、目が覚めました。
「お前は帰って休め。体に障る」
「でも……お兄ちゃんが……」
「だいじょうぶだ。もう、死んだりしない」
そう言うお兄ちゃんの口調は、聞いたことがないほど弱々しくて、
胸が詰まりました。
「絶対だよ?」
「約束する」
それ以上わたしには、なにも言えませんでした。
言えば言うほど、お兄ちゃんを追いつめるような気がしました。
翌日、昼間から、父親がわたしを呼びました。
「○○、出かけるぞ、支度をしろ」
「はい」
退院するお兄ちゃんを迎えに行くのだ、と思いました。
けれど、降りたのは、病院の最寄り駅ではありませんでした。
ここは……お兄ちゃんのアパートのある街です。
先に立って歩く父親の後をついていきながら、考えました。
お兄ちゃんのアパートを引き払いに行くのだろう、と。
父親が、立ち止まって振り返りました。
「○○、見覚えはないか?」
とっさに、カマを掛けてきたのだろう、と思いました。
「知らない」
父親は嫌みったらしく口元を歪めて、ふん、と鼻を鳴らしました。
アパート前まで来ると、大家さんらしき人が外に立っていました。
露骨に顔をしかめています。
「××です。この度はご迷惑をおかけしまして」
「困るんですよね、ああいうことされると。
変な噂が立つと借り手が居なくなるんですよ」
わたしは頭を深々と下げました。
「兄が、ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
「いや……お嬢ちゃんに謝られてもね……」
大家さんは困った顔をして、わたしに頭を上げさせました。
「○○、俺は大家さんと話があるから、その間に中を片づけておけ」
父親に言われて、わたしは部屋に入りました。
中は、数少ない荷物が散乱して、泥棒が入った後のように荒れていました。
わたしは掃除しながら、お兄ちゃんの鞄を漁りました。
父親に見られてはまずいモノを、先に回収しておかなくてはいけません。
わたしがお兄ちゃんに出した手紙を見られたら、最悪です。
けれど、手紙の束は見つかりませんでした。
お兄ちゃんがわたしの手紙を捨てるわけがない、どこに隠したのだろう?
……と思案していると、父親がドアを開けました。
「○○、終わったか?」
「まだ……もう少し」
「捜し物はこれじゃないのか?」
顔を上げると、父親が背広の内ポケットから手紙の束を取り出しました。
この封筒の色は……わたしの手紙です。
勝ち誇った表情の父親に、返す言葉はありませんでした。
「最初から親を騙していたんだな。こそこそシラを切りやがって。嘘吐きが」
カッと頭に血が集まりました。
大声で叫び出したい気持ちを、こらえました。
「……そうです。ごめんなさい」
「お前のことはもう信用しないぞ」
はじめから、わたしの言葉など歯牙にも掛けなかったんじゃないですか?
一度でも、わたしのことを気にかけたことはあったの? お父さん。
……それは、言葉にはなりませんでした。
それから病院に行って、お兄ちゃんと三人で帰宅しました。
帰りの電車の中は、お通夜の後のような雰囲気でした。