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夏休みが近いということで、クラスはどことなく浮ついた雰囲気でした。
わたしは1人、補習を受けに指導室に向かいました。

今日はUとVが待っていないので、読みかけの本を読んでしまうつもりでした。
Vにはお稽古事が、Uには新しいCDを買いに行く予定があったのです。

指導室に入ると、f先生が一番奥に座って、なにか書き物をしていました。
f先生は手元の書類に向けていた視線を上げ、少し頬をゆるめました。
わたしも微笑して、入り口近くの椅子に腰を下ろし、本を取り出しました。

先に補習に来ていた生徒は、名前を覚えていない女子が1人だけでした。
わからない所を時々尋ねてくるので、わたしは読書に集中できませんでした。

たまたまf先生のほうに目をやると、先生は書類を埋める手を休めて、
眉根を寄せたり、唇を変な形に歪めたり、ペンをくるくる回したりしました。

見られていると気づいていない、先生のその仕草が子供のようで、
わたしは思わず見入ってしまいました。
ただ見つめていると、どういうこともないのに、なんだかホッとしました。

ふと、先生が顔を上げて、「どうした?」という顔でわたしを見返しました。
わたしは黙ったまま、微かに首を横に振り、
「なんでもありません」という意思表示の代わりにしました。

やがて、もう1人の女生徒が、塾があるからと言って席を立ちました。
わたしは本をまだ読み終えていなかったので、
最後まで読んでしまってから帰ろう、と思いました。

集中して読書していると、いつの間にか下校時刻になっていました。
校内放送でやっと我に返ったわたしは、椅子を引いて立ち上がり、
固くなった背筋を伸ばしました。

本を鞄に仕舞い、f先生に会釈して、指導室を出ようとした時のことです。
先生がわたしに手招きをしました。

わたしは、なんだろう、と思いながら、鞄を置いて先生のそばに寄りました。
一瞬、なにが起きたのか、理解できませんでした。
わたしは先生の腕の中に、抱きすくめられていました。

意識が凍結してしまったように、止まっていました。
夢の中に居るみたいに、体にも力が入りません。
先生の顔が目の前に来ているのに気づいて、わたしはハッとしました。

「キスされる!」という思考が、稲妻のように体を駆け抜けました。
わたしはパニックを起こして、逃れようと必死に身をよじらせました。

でも、腕力が違いすぎました。
わたしは机に押さえつけられて、身動きできなくなりました。
わたしが暴れたせいか、先生も焦って乱暴になってきました。

「いやーーーー!」

わたしは力を振り絞って絶叫しました。いえ、絶叫したはずです。
手で口を塞がれて叫びにならなかったような気もするのですけど、
声が出ていなかったら、その後の事が理解できません。

突然、扉が勢いよく開いて、生徒指導主任のT先生が飛び込んできました。
f先生は、弾かれたようにわたしから身を引き離しました。

後で聞いた話だと、このときわたしは泣いていて、服が乱れていたそうです。
T先生は物も言わずにf先生を殴り飛ばしました。

f先生は抵抗もせず、座り込んで鼻血を手で押さえていました。
呆然としてそれを見ているわたしを、誰かが立たせました。
白衣を着た保健室の先生でした。

わたしは保健室に連れて行かれ、ベッドに寝かされました。
保健室の先生に問われるままに、わたしは一部始終を話したそうです。

わたしが虚脱状態から回復すると、
待っていたT先生が車で家まで送ってくれました。
その日、どうやってベッドに入ったのか、よく覚えていません。

翌朝目覚めると、昨日のことがぜんぶ夢だったような気がしました。
でも、目が覚めてくると、体が震えだしました。
学校に行きたくない、とわたしは初めて思いました。

それでも、心と体に刻まれた、習慣の力は偉大でした。
はっきりした理由もないのに、無断で欠席するわけにはいきません。
わたしは嫌々ながらも機械的に身支度をととのえ、登校しました。

いつもよりゆっくり歩いて学校に着いてみると、f先生は欠勤していました。
わたしは気が抜けて、椅子の背もたれに深々と体重を預けました。

f先生の代わりにホームルームに現れたのは、生徒指導主任のT先生でした。
T先生は50歳を過ぎて髪の毛が半分白くなっていましたが、
がっちりした体格で筋骨隆々としていました。

人気のあるf先生の代理が鬼のように怖いT先生だというので、
クラスメイトの女子たちは、ぶーぶー不平を漏らしました。

昼休みの時間に、生徒を閉め出して、臨時職員会議が開かれました。
放課後に、わたしはT先生に声をかけられ、校長室に呼ばれました。
校長室では、校長先生と教頭先生が待っていました。

校長先生は、f先生にはしかるべき処分が下ると保証してくれました。
わたしは黙って聞いていました。

でも、わたしの家に謝罪に伺いたい、という校長先生の申し出には、
「けっこうです」と首を横に振りました。

怪訝そうな顔をする先生方に、わたしは告げました。

「まだ、両親にはなにも話していません。
 わたしの父は、厳しい人です。
 このことを知ったら、学校を訴えると思います。
 わたしは、黙っているつもりです」

父親が学校を訴えるだろう、というのは、でたらめでした。
わたしはただ、両親とは口を利きたくなかっただけです。

先生方が顔を付き合わせて、ぼそぼそ相談した結果、
家庭訪問は取り止めになりました。
学校側としても、事を荒立てたくなかったのでしょう。

わたしが校長室から解放されると、T先生が付いてきました。
まだなにか話があるのだろうか、と顔を見ると、
T先生はわたしの目をじっと見つめました。

「××……まだ心の整理がついてないだろうが……
 まぁ、頑張れ。いつでも相談に乗るぞ」

T先生はそう言って、わたしの肩をぽんと叩きました。
わたしはその瞬間血の気が引き、肩をすくめて硬直してしまいました。

「お……おい、大丈夫か?」

目を丸くしているT先生を残して、わたしは歩きだしました。
だんだんと、肩のあたりがかゆくなってきました。

保健室に行くと、保健室の先生が居ました。

「どうしたの?」

先生は、なにげない口調で尋ねました。

「肩が、かゆいんです」

カーテンの陰で紐ネクタイとボタンを外し、ブラウスの肩をはだけてみて、
わたしは絶句しました。

肩口から二の腕にかけて、一面入れ墨のようなミミズ腫れができていました。
言葉を無くしているわたしに、それは「じんましん」だと先生が教えてくれました。


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