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家に帰ってしばらくして、日射しに晒された肌が真っ赤に熱を持ってきました。
お風呂のお湯に浸かると、全身を針で刺されたような痛みに涙が出ました。
布団に入っても背中がちくちくして、なかなか寝付けませんでした。

朝になって目が覚めた後、起きあがるのにまた一苦労でした。
手足が棒になったみたいに固くなっていて、筋肉痛に背中が悲鳴を上げました。
わたしは意志の力だけで、体を無理やり動かしました。

学校のプールで練習を終えて、公営プールへと自転車をこぐわたしは、
きっと歯を食いしばったもの凄い顔つきをしていたと思います。

ただ体を水に浮かせるだけという、次のステップが一番の難題でした。
理論的に人体は水に浮く……ということはわかっていても、
体の力が抜けていないと、なすすべもなく沈んでしまいます。

本能的な水への恐怖感は、理屈で考えてもなかなか抜けません。
バランスを崩さずに自転車をこぐコツと同じで、体に覚えさせるしかありません。

わたしはショック療法として、先に飛び込みの練習をすることにしました。
飛び込み台を蹴ってしまえば、空中で後戻りはできないからです。

プールの飛び込み台に立つと、目の高さから水面までは2メートルもないのに、
ビルの屋上に立っているような気がしました。

いつまでも中腰のまま固まっているわけにもいきません。
下に人が泳いでいないのを確かめてから、
思い切ってわたしは宙に身を躍らせました。

遠くへ飛ぼうとしすぎて、胸と腹をまともに水面に打ち付けました。
わたしは息が止まってしまって、そのまま溺れてしまうところでした。

飛び込む角度を計算して、頭から飛び込むようにしなければいけません。
2回目は深く飛び込みすぎて、プールの底すれすれまで潜りました。

何度か繰り返すうちに、コツがつかめてきました。
体をまっすぐに伸ばして、思い切って頭から水に飛び込むのです。
うまくいくとそれだけで数メートル先に進めます。

やがて恐怖心が薄らいだのか、しばらく水に浮いていられるようになりました。
次の問題は、手足の連携と息継ぎでした。

クロールで泳ごうとすると、手と足を違うリズムで動かさなくてはいけません。
手に集中すると足がおろそかになり、足に集中すると手が止まってしまいます。
その場でばたばた水を叩くだけで、ちっとも前進しません。

そのうえ、息継ぎのタイミングがうまくつかめず、息が続きません。
横から見ていたら、きっと溺れているようにしか見えなかったことでしょう。

わたしは方針を転換して、平泳ぎに集中することにしました。
スピードは出ませんけど、どうせ水泳の課題にタイムは関係ありません。
どんな泳ぎ方でも、25メートル泳ぎ切れれば良いのです。

平泳ぎと言うよりは、死にそうな蛙がもがいているような体勢でしたけど、
曲がりなりにも前に進めるようになりました。

残る問題は、わたしの体力です。1年以上ろくに体を動かしていなかったうえに、
わたしにはもともと、腕力も持久力もまるっきりありませんでした。

力の続く限り泳いでも、息が切れてプールの底に足を突いてみると、
5メートルも進んでいませんでした。

こればかりは、理論もコツも関係ありません。反復練習あるのみです。
わたしは毎日、唇が紫色になるまで泳ぎ、プール際にうずくまって休む、
を繰り返しました。

一日が終わると、もうくたくたで、UやVと遊ぶ暇も元気も残りませんでした。
日曜学校で顔を合わせると、2人ともわたしを一目見て目を丸くしました。

「アンタ……大丈夫か? 目が真っ赤やで?」

「だいじょうぶ。プールのカルキのせいだと思う」

「首も赤いよー? 腫れてるみたいー」

「……なかなか日焼けしないみたい。
 それより……ふふふふふふふ……わたし、泳げるようになったよ」

「そ……それはおめでと。
 そやけど、アンタちょっと怖いで。鬼気迫るちゅうか……。
 ほどほどにしときや?」

「もう、あんまり時間がないの。なんとしてでも課題をクリアしなくちゃ」

「アンタ……背中が燃えてるんとちゃう?」

Uは苦笑いし、Vは顔が引きつっていました。

課題に挑戦する当日は、UとVが見物にやってきました。
わたしはなんとか、20メートル泳げるようになっていました。
飛び込み台に立つと、プールの脇で見物しているUとV、
それに体育教師のT先生、補習に来ている生徒たちが目に入りました。

注目を浴びるのに慣れていないせいか、心臓がどきどきしました。
でも、深呼吸を繰り返すと、肚が座ってきました。
ここは覚悟を決めるときです。

前傾姿勢を取り、手を振って頭から飛び込みました。
お腹を打たず、スムーズに水に飛び込めました。

そのまま惰性で行けるところまで距離を伸ばしました。
そこからが長い道のりです。
手足を動かしても、じれったいほどゴールは遠いままでした。

あとは力を出し切って、前に進むしかありません。
息継ぎの際に、少し水を飲んでしまいましたけど、立ち止まったら失格です。

20メートルラインまで来て、もう目の前がよく見えなくなりました。
いくら手足を必死に動かしても、プールの壁に手が届きません。

もう手も足も動かない……というぎりぎりのところまでいって、
ようやくプールの縁に指が当たりました。

足を底についてみると、そこはゴールではなく、プールの横の壁でした。
わたしはいつの間にか、途中で90度方向転換していたのです。

がっかりしてプールの縁に顔を伏せたわたしに、
T先生が声をかけました。

「距離は25メートル超えてたぞ。合格にしておく」

わたしがUとVに引っ張り上げられているあいだに、
T先生は補習カードに合格のスタンプを押してくれました。

これで、お兄ちゃんが帰ってきたとき、障害は何もない、と思いました。
でも、その考えは甘かったのです。


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