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別れは、あっけないものでした。

「手紙書けるようになったら、手紙くれよ」

「うん」

静かに話をしていたお兄ちゃんが、何気なく立ち上がりました。

「そろそろ、時間だ」

「もう、行っちゃうの?」

「ああ。また会える」

「……」

お兄ちゃんは出口まで歩いて行って、振り返り、右手を胸の辺りまで挙げて、
小さく振りました。
わたしも、ベッドに座ったまま、右手を胸まで挙げました。

「またな」

「また、ね」

お兄ちゃんは、行ってしまいました。
わたしは、ベッドに身を横たえ、虚脱しました。
部屋が、急に広くなったように思えました。

悲しいとか、泣きたいという思いが浮かぶより早く、目頭が熱くなりました。
後から後から、途切れることなく涙がこぼれました。
わたしは涙を拭くこともせず、流れ落ちるに任せました。

看護婦さん2人とQさんが、病室に入ってきました。

「○○ちゃん、すごい顔ね」

Qさんが、タオルで顔を拭いてくれました。

「……」

「部屋変わることになったから、起きて」

「はい」

ストレッチャーで連れて行かれた先は、6人部屋でした。
わたしのベッドは、ドアを入って左の一番手前でした。
それ以外のベッドはすべて、先客で埋まっていました。

隣のベッドに居たのは、まだ1歳半ぐらいの女の子でした。
白目の部分が黄色くなっていて、肌の色は黄土色でした。
わたしはつい、まじまじと見つめてしまいました。
手足は枯れ木のように細く、おなかだけ信じられないくらい出ていて、
まるで飢餓に陥った難民の子供のようでした。

女の子の名前は、思い出すことができません。
周りの人はみんな「いやじゃ姫」と呼んでいました。
その女の子が、言葉を2語しかしゃべらなかったからです。
二つの言葉というは、「いや」と「痛い」でした。
いやじゃ姫は、薬を飲まされたり、点滴の針を刺されるたびに、
そう言って泣き騒ぎました。

この病院では、家族の人が常時付き添うことはないのですが、
いやじゃ姫は例外でした。手が掛かりすぎるからでしょう。
いやじゃ姫のお母さんの話によると、生まれつき肝臓に障害があって、
胆管がほとんど詰まっているそうです。

2回手術をしたそうですが、経過が悪く、「2歳が寿命ね」と淡々と言いました。
そう言うお母さんの平静な様子に、わたしは度肝を抜かれました。

いやじゃ姫の向こう側のベッドには、肝臓病のお兄さんが寝ていました。
中学3年生で、顔色が悪いほかは、ふつうの人に見えました。
交通事故にあって、輸血したせいで肝炎になった、と後で話してくれました。

お兄さんは、何をするでもなく、いつも静かに窓の外を見ていました。
今でも、あのときお兄さんは、何を考えていたんだろう、と思います。

わたしの向かい側のベッドの3人は、みんな腎臓病でした。
窓際の小学5年生の男の子は、ネフローゼで顔がむくんでいました。

真ん中のベッドの女の子は、まだ小学3年生で、泣き虫でした。
毎日夜中にわけもなくナースコールを押して、看護婦さんを呼びだしては叱られて
いました。

壁際のベッドの男の子は、小学4年生でした。
お母さんが見舞いに来ている時は元気一杯で、じっとしていませんでしたが、
内弁慶なのか、お母さんが帰ると無口になりました。

腎生検を行うのは、わたしを含めた、腎臓病の4人でした。
看護婦さんが、明日から食事が腎臓食のB(2番目に制限が厳しい)に
なるけど、明後日腎生検をするから、その日は朝から絶食だと告げました。

大部屋では、夜もおしっこで起き出す子がいたり、泣き虫の女の子が
しくしく泣いたりして、にぎやかでした。
わたしは、いやじゃ姫の付き添いのお母さんと話すことが、多くなりました。


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