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両手で手すりを掴んでいても、階段を上り下りしてトイレを済ませるのに、
1回で15分ぐらいかかりました。

お兄ちゃんは手を出さないで、じっと見ているだけでした。
動かしていないと関節が固まってしまう、と言っておいたせいです。

でもお兄ちゃんは、さりげなく階段の下に立っていました。
万が一わたしが転落したときに、受け止めるためだったのでしょう。

わたしはまだ安静にしていなくてはならなかったので、
春休みはどこにも遊びに行けませんでした。
ほとんどの時間を、自分のベッドに座って本を読んで過ごしました。

お兄ちゃんは時々、わたしの様子を見に来ました。
クッションに腰掛けて、なにを言うでもなく座っていることもありました。
わたしもただ、本のページに目を落としていました。
その静かにたゆたう時が、わたしは一番好きでした。

ある夜、お兄ちゃんがギターケースを提げて、部屋に入ってきました。

「お兄ちゃん、どうしたの?」

「一曲聴かせてやろうか?」

お兄ちゃんは不敵な笑みを浮かべました。

「聴きたい」

お兄ちゃんはクッションに腰を下ろして、ギターを構えました。
ギターの調べに乗せて、寂しげな歌を口ずさみはじめました。

もしも明日わたしたちが
何もかもをなくして
ただの心しか持たない
痩せた猫になっても……
このフレーズが心に残りました。

「お兄ちゃん……それ、なんていう歌?」

「中島みゆきの『あした』っていう曲だ」

「……寂しい歌、ね」

「……そうだな。変か?」

お兄ちゃんの明るいイメージには合わないような気がしました。
でも、いまのお兄ちゃんの歌声には、情がこもっていました。

「ううん。とっても良い歌だった。もっと聴きたい」

それから何曲か、お兄ちゃんの歌に耳を傾けました。
弦の震える音が、歌声が、その場の空気そのものが知覚できました。
わたしの体が以前にも増して、弱くなっていたせいかもしれません。
綱渡りのロープの上を歩いているみたいに、感覚が研ぎ澄まされていました。

お兄ちゃんのワンマンショーが終わって、ストレッチをしました。
寝てばかりいる体が、固くなってしまわないようにするためです。

最後の仕上げは、お兄ちゃんの手による全身マッサージでした。
手を動かすお兄ちゃんの表情や態度は、去年とは微妙に違っていました。
笑みを消し、努めて事務的に振る舞っているのが判ります。

わたしは一言も発せず、歯を噛んでマッサージを受け入れました。
泣いても泣いても忘れられなかったお兄ちゃんへの想いを、
いま悟られるわけにはいきませんでした。

そんなモノトーンの日々は駆け足で過ぎ、始業式の朝が訪れました。
わたしは久しぶりに制服に身を包んで、去年より30分早く玄関に立ちました。
杖を突きながらだと、学校までの道のりに時間がかかりそうだったからです。

表に出ると、真新しい高校の制服姿のお兄ちゃんが、
バイクにまたがって待っていました。

「○○、乗れよ」

「お兄ちゃん……どうしたの?」

「学校まで送っていってやる」

お兄ちゃんはにやっと笑いました。悪戯小僧のような笑みでした。

「でも……バイク通学はダメなんじゃないかな……」

中学校では当然、バイク通学は認められていません。
お兄ちゃんの高校も、たぶん同じでしょう。

「大丈夫。ちゃんと学校の許可は取ってある。
 T先生に事情を話して、特別に俺が送り迎えするのを認めてもらった」

お兄ちゃんは得意そうに、頬をぴくぴくさせています。
まだ高校の許可を取っているかどうかが不明瞭でしたけど、
わたしは追及しないことにしました。

タンデムシートに乗る時に右足が痛みましたけど、仕方がありません。
スカートなので横座りして、お兄ちゃんの背中に抱きつきました。

「落ちないようにしっかり掴まってろよ」

ステップに足をかけられない体勢では、腕の力だけが頼りです。
わたしは腕をお兄ちゃんのお腹に回して、力いっぱいしがみつきました。

安全運転で走っても、学校まではあっという間でした。
学校までの距離がもっと遠ければ良いのに、と思いました。

校門の手前で停まったバイクから降りると、登校中の生徒たちが、
わたしたちに注目していました。
門の裏からUとVが現れて、こちらに走り寄ってきました。

「おはよう」
「おはよー」

Vがわたしの鞄を取り上げました。

「それじゃ、後はよろしく」

お兄ちゃんはUとVにそう言って、軽く会釈して走り去りました。


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