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考えないようにしていても、お兄ちゃんが田舎に帰る日は、
容赦なくやってきました。
わたしはいつもより早く、目が覚めました。
階段を下りて洗面所で顔を洗っていると、
ロードワークから帰ってきたお兄ちゃんが、シャワーを浴びに来ました。
「お兄ちゃん、おはよう」
「おはよう、早いな」
「今日は、わたしが朝ご飯作る」
「そっか、卵焼きか?」
「うん。お兄ちゃん、何時に出発する?」
「ん……朝ご飯食べたらな」
「じゃあ、駅まで一緒に行く」
「そっか」
お兄ちゃんはそれだけ言って、口をつぐみました。
わたしは自分の部屋に戻って、中学校の制服に着替えました。
中学生になったわたしの姿を、お兄ちゃんに覚えておいて欲しかったからです。
エプロンを着けておみそ汁を作っていると、お兄ちゃんが台所に入ってきました。
「○○。制服なんか着て、どうしたんだ?
今日は学校に行く日じゃないだろ?」
「……着てみたかっただけ」
「学校が始まったら毎日着ることになるのに、変なヤツだな」
笑いをこらえているような声でした。
「……わたし、もっと早く生まれれば良かった。
そしたら、お兄ちゃんと一緒に、中学校に行けたのに」
「……ああ、そうだな」
お兄ちゃんの前で笑っていたいのに、笑えませんでした。
お兄ちゃんも、何を考えているのか、いつもより素っ気ない様子でした。
おみそ汁も卵焼きも、失敗はしませんでしたが、
努力しないと喉を通りませんでした。
意識していないと、呼吸さえ止まってしまいそうな胸苦しさがありました。
お兄ちゃんが箸を置いて、言いました。
「やっぱり、今日帰るのは止めた」
「え?」
お兄ちゃんは、にやりと笑いました。
「兄ちゃんは、お前の入学式が済むまで風邪引いたみたいだ」
「……もしかして、仮病?」
「そういうこと言うんなら、やっぱり帰ろうかな」
「ウソウソ! 今のナシ」
「ま、入学式でのお前も写真撮っておきたいしな。
一生に一度だもんな」
「……お兄ちゃんの入学式は?」
「俺のは、どうせF兄ちゃんぐらいしか来ないだろ」
朝ご飯を食べ終えて、お兄ちゃんは予約の変更をしに出かけて行きました。
わたしは思わぬ幸運に心奪われて、同じお茶碗を10分も洗い続けました。
入学式の日が来ました。
少し風がありましたが、雨は降っていませんでした。
遅れないように少し早めに、お兄ちゃんと肩を並べて家を出ました。
中学校に着くと、校庭の桜の木が、風に花びらを舞い散らしていました。
木の下にわたしを立たせて、お兄ちゃんが写真を撮りました。
来客用下駄箱の上に、クラス分けの貼り紙がしてありました。
わたしのクラスに、見覚えのある名前はほんのわずかでした。
R君の名前は……と思って首を巡らすと、2つ隣のクラスでした。
クラスメイトに友達はできるだろうか、と不安がよぎりました。
退屈な式のあいだじゅう、わたしは後ろの保護者席に居るはずの、
お兄ちゃんを意識していました。
ホームルームでは、担任の挨拶の後、連絡事項のプリントが配られ、
空き教室に積んである教科書を、男子たちが取りに行きました。
教科書を全部詰めた鞄は、結構な重さになりました。
最初に家で教科書を一通り読んでしまうつもりでしたし、
まだ席順は仮のものだったので、持って帰らなくてはいけませんでした。
少しふらつきながら、重い鞄を提げて校舎を出ると、
校門脇の桜の木の下で、お兄ちゃんが待っていました。
お兄ちゃんはわたしから鞄を取り上げて、校門とは逆方向に歩き出しました。
「お兄ちゃん、どこ行くの?」
「ここに来ることはもうないからな、見納めに一回りしておきたいんだ」
わたしはお兄ちゃんの後について、人気のないプール、体育館、
テニスコート、校舎裏を巡り歩きました。
お兄ちゃんはプレハブの倉庫の裏で立ち止まって、口を開きました。
「この辺は柄の悪いヤツの溜まり場だからな。
もしタバコ吸ってるのを見かけても、近寄ったり注意しちゃダメだぞ」
なんとなく、光景が目に浮かびました。
「……もしかして、その中にお兄ちゃんも居た?」
お兄ちゃんは痛いところを突かれたような顔をして、続けました。
「昼休みが始まってすぐに、ここに呼び出されたら、
理由は2つしかないから、覚えておけよ。
呼び出した相手が女だったら、お前にケンカ売ってるってことだし、
男だったら告白だ」