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面会時間になって、お兄ちゃんがやってきました。
わたしは待ちきれず、ベッドの上で四つん這いになって、
写真をシーツの上に広げていました。
「○○、おはよう。
なんだ、その写真?」
お兄ちゃんが、写真を覗き込みました。
「運動会の、写真。
先生が、撮ってくれたの」
「そっか、手紙にそんなこと書いてあったな。
一緒に見ようか」
1枚1枚写真を指さして、わたしはその時のことを説明しました。
お兄ちゃんは、手作りの大きな旗に感心しました。
「よくこんなの、ひとりで考えたな。
目立ってただろ?」
「うーん……旗を振るのに一生懸命だったから、
よくわからない」
「ははは。
お前は集中すると、周りが見えなくなるからな。
本を読んでいる時なんて、声を掛けても気付かないぐらいだし。
でも、これだけの旗だ。
目立ったに決まってるさ。
頑張ったな」
お兄ちゃんは、満面の笑みを浮かべました。
「うん。徒競走でも、初めて5位になれた。
運が良かったせいだけど。
同じ列に、足の遅い子がいたから」
「でも、一生懸命走ったんだろ?」
「うん」
「この写真か……それにしても、すごい顔してるな」
わたしは、ゴールの瞬間の写真を、さっと手で隠しました。
「恥ずかしがることないさ。
必死な顔を、誰も笑ったりしない。
笑うやつがいたら、ぶっ飛ばしてやる。
お前は要領が悪いけど、その代わり何事にも手を抜かないだろ。
お前は、俺の自慢だよ」
わたしは、写真から手を引っ込めました。
お兄ちゃんの手のひらが、わたしの肩に乗りました。
「お前は、やればできるんだ。
なんたって、俺の妹だからな」
魔法の呪文をかけられたように、胸の空隙があたたかさで充たされました。
ただ、まだひとつ、冷たい芯が残っていました。
「……でも、もう走れない」
わたしはうなだれました。来年の中学校の体育祭には、参加できません。
「O先生は、何年かすれば、健康になるって言ってたぞ」
「そうだけど……」
「ああ、すごく長い時間に感じるだろうけど、
一生の長さに比べたら、あっという間だ。
ちょっとずつ、ちょっとずつ、元気になればいい」
胸の中の、最後の凍った欠片が溶けました。
わたしは写真をまとめて、お兄ちゃんに渡し、ベッドに横たわりました。
朝のあいだずっと、お兄ちゃんが来たらいっぱい話をしよう、
と思っていたのに、どういうわけか、言葉が出てきません。
「しかし、久しぶりに帰ってくると、意外と街並みが変わってるな。
角のたばこ屋がなくなって、コンビニができてるし……」
お兄ちゃんが、静かな声で、懐かしそうに語りだしました。
なんでもない話題なのに、胸に滲み入るようでした。
穏やかな時間が、流れていきました。
わたしが、オブラートがないと粉薬を飲めないというと、
お兄ちゃんは飲み方が悪いんだ、と笑いました。
刻一刻と、別れの時が近付いてきました。
わたしは、ちらちらと、時計の針を確認しました。
知らないうちに、時間を盗まれているような気がしました。
「どした?」
お兄ちゃんが、わたしの視線に気付きました。
「お兄ちゃん、今度会えるの、来年だね」
「……ああ。春休みには、帰ってくる」
「……」
離れていると会いたくなり、会えば別れが怖くなります。
もっと、一緒にいたい、と思いました。
お兄ちゃんは、何か考え込んでいるようでした。
「ちょっと、O先生に会ってくる」
お兄ちゃんが、立ち上がりました。