304:
お兄ちゃんの休みに合わせて、三者懇談の予約を入れました。
生徒指導室の前の廊下で、お兄ちゃんが来るのを待ちながら、
わたしはうろうろと落ち着きませんでした。
あの別れの日以来、お兄ちゃんの声を聞いていません。
客用のスリッパの立てるパタパタという音がして、さっと振り向くと、
お兄ちゃんが歩いて来ました。
やつれた顔をしていないか心配していたのですが、元気そうです。
紺のスーツに
挨拶の代わりにお兄ちゃんは自然な笑みをこぼし、わたしも微笑みを返しました。
自分の顔がにやけてくるのを止められません。
「○○、時間はまだ大丈夫か?」
「うん、前の人が少し長びいてるから」
「元気そうでよかった」
「お兄ちゃんも……」
これから始まる懇談に緊張しているのではなく、
お兄ちゃんの凛々しいスーツ姿にわたしはのぼせていました。
心臓がはち切れそうに苦しい。
どうしよう、どうしよう……。
胸の内側がぱんぱんに膨れあがってはち切れそうです。
指を伸ばして、お兄ちゃんに触れたい。
喉の奥から言葉にならない熱い思いが噴きこぼれそうで。
その時、指導室の扉がガラガラと開いて、前の組が出てきました。
わたしの背中をぽんぽんと叩いて、「落ち着け」とお兄ちゃんが囁きました。
懇談はたったの5分で終わりました。
志望校が明確で先生も反対しなかったからです。
前の組の親子はいったいなにを話して長びいたんだろう、と不思議でした。
外に出て、お兄ちゃんは「早かったな」と言いました。
「うん……お兄ちゃんは、これからどうするの?」
「お前は?」
「わたしは、もう帰るだけ」
「そうか。それじゃ、途中までいっしょに帰るか」
「うん!」
嬉しくて嬉しくて踊り出したい気分でした。
急いで靴を履きかえに行って、校門のところで再び落ち合いました。
いつもの帰り道を、できるだけゆっくりと歩きます。
お兄ちゃんもわたしの歩調に合わせてくれました。
ただ黙って歩くだけなのに、どうしてこんなに幸せなんだろう……。
もちろん、隣にお兄ちゃんが居るからです。
「お兄ちゃん」
小さな声で呼ぶと、お兄ちゃんが振り向きます。
「ん?」
鼻にかかったような返事を聞くだけで、胸がきゅっとしました。
「……なんでもない」
「○○」
「なに?」
「お前、家でつらくないか?」
「……あの家には、帰りたくない。でも、我慢できる」
父親から二人分の罵倒を投げつけられることで、
お兄ちゃんに代わって生け贄の役を引き受けているような気がしました。
だから、心の凍るような仕打ちにも耐えられたのでしょう。
「○○……ごめんな。俺に力がなくて。お前を守ってやれない」
「気にしないで。気にしてくれるだけで、すごく嬉しい」
お兄ちゃんが立ち止まりました。わたしも足を止めました。
「お前をあの家に帰したくないよ……もう少しだけ、いっしょに居よう」
「うん」
お兄ちゃんはわたしの手を引いて、小さな公園に入っていきました。
お兄ちゃんの指に触れているわたしの指が、熱を持ったように火照りました。
木のベンチにハンカチを敷いて座り、言葉もなく、肩と肩を寄せ合いました。
長い、けれど不快ではない沈黙ののち、お兄ちゃんが口を開きました。
「仕事の方は上手くいってる。あんなに迷惑をかけたのにな」
「よかった……」
「それどころか、常連のお客さんでレストランのオーナーをしている人から、
厨房で働かないかって誘われてる。それも婿養子に来ないか、ってさ」
「えっ、婿養子?」
「冗談に決まってるだろ。オーナーの娘はまだ中学生だぞ」
お兄ちゃんはくっくっと笑いました。
「……もう」
「新しいアパートも見つかったよ。もうじき引っ越しだ。
今は友達のところに転がり込んでる」
「また、遊びに行っていい?」
答えが返ってくるまでに、間がありました。
「まだ……だめだ」
「そう」
「来たら、お前を帰したくなくなっちまう……」
「……ひとつだけ、お願いしてもいい?」
わたしが立ちあがると、お兄ちゃんも立ちました。
「お兄ちゃんを忘れないように……今だけ、抱きしめてほしい」
返事を待たずに、お兄ちゃんの胸に抱きつきました。
拒絶されるのではないかと背中を強張らせながら。