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「ホントにこれで良いのか? 安物だし、もう傷だらけだ。
もっと可愛いのを選んでやるぞ?」
「それが良い」
「そっか……俺は良いけど」
お兄ちゃんの気が変わらないうちに、わたしは腕時計に手を伸ばしました。
でも、バンドの留め金が、上手く外せません。
「おい、今すぐか?」
「ダメ?」
「これがないと、時間がわからないんだ」
「時間を知りたかったら、いつでも言って。
わたしが時計を見て、教えるから」
お兄ちゃんが自分で腕時計を外して、手渡してくれました。
アナログ式の、シンプルなデザインのドレスウォッチでした。
わたしはそっと、ポケットに仕舞いました。
並木道の外れに、小さな池がありました。
たまに車が通るぐらいで、とても静かでした。
お兄ちゃんは少し離れて立って、水面の微かなざわめきを眺めています。
わたしは、なんとはなしに口を開きました。
「お兄ちゃん」
「ん、なんだ?」
「なんでもない……呼んでみただけ」
「ははは、変なヤツ」
「……」
「○○」
お兄ちゃんの優しげな声音に、どきりとしました。
「なに?」
「なんでもない」
「!」
「ははは、冗談冗談。
お前、ナンパされたことあるか?」
「え? ない」
「そりゃそうか。小学生をナンパするなんて、変態だもんな。
でも中学生になったら、わからんぞ。
いいか、変な男に声掛けられても、付いていくんじゃないぞ」
「わたし美人じゃないから、だいじょうぶだと思う」
「そんなことない……。お前は、笑うとすごく可愛い」
「ホント?」
顔が熱くなりました。
「ん、まあ、兄貴の欲目かもしれないけどな」
「わたしはあんまり笑わないから、だいじょうぶ」
「どうしてだ?」
「面白くもないのに笑うのは、変でしょ?」
「う〜〜〜ん」
お兄ちゃんは、腕組みして首をひねりました。
「まあ、無理して笑うこともないけどな。
……お茶でも飲んでくか」
並木道が終わる交差点の対角線上に、古びた喫茶店が見えました。
わたしはお兄ちゃんに続いて、入り口をくぐりました。
壁のメニューには、様々なコーヒーの銘柄が並んでいました。
「マンデリンひとつと……」
「わたしも」
「お前、コーヒー飲めるのか? パフェもあるぞ」
「コーヒーが良い」
髭のマスターが淹れてくれたコーヒーが、テーブルに置かれました。
わたしは自分のカップに、砂糖をスプーン1杯入れました。
一口飲んで、砂糖をもう2杯、足しました。
ブラックで飲んでいるお兄ちゃんが、気持ち悪そうな目をしました。
「……コーヒーの味するのか?」
「美味しい」
飲み干すと、カップの底に溶け残った砂糖が少し残っていました。
交差点のそばの停留所でバスに乗って、真っ直ぐ家に帰りました。
それから毎日、お兄ちゃんと出かけました。
わたしが疲れないように、早く帰らなければなりませんでしたけど。
プラネタリウム、映画館、水族館、植物園……。
どれも、初めて行く場所ばかりでした。
映画館では、空気が悪いせいか、見終わった後に頭が痛くなりました。
植物園では、高山植物の小さな花が、一番気に入りました。
夢のように楽しい日々でした。
微かな翳りは、たまに帰ってくる両親との、重苦しい夕食だけでした。
4月に入って、新入生説明会の日が来ました。
お兄ちゃんは、見慣れない背広のようなブレザーを着て、ネクタイを締めました。
「早いめに頼んでおいたんだ。これが俺の制服」
詰め襟の学生服と比べると、大人っぽく見えました。
この頃のお兄ちゃんは髪も伸びて、ブレザーがぴしりと決まっていました。
「お兄ちゃん、格好良い」