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おそらくはこの時期が、わたしの人生で、最も平穏な一時ひとときでした。
友達が少なくて、激しい運動ができないほかは、ふつうの中学生だったと思います。

体育の授業はずっと見学でしたけど、適度な運動は禁止されていませんでした。
主治医のO先生は、体力をつけるために散歩しなさい、と勧めてくれました。

問題は、もともとわたしには基礎体力がまるで無かった、ということです。
感染症が一番恐いので、朝起きて少しでも喉が痛むと学校を欠席しました。

担任には診断書を提出していましたので、不登校とは見られませんでしたが、
クラスメイトたちからは、不審の目で見られていたかもしれません。

登校した日でも、授業中は机に顔を伏せているのが、いつものことでした。
居眠りしていたわけではないので、指名されると立ち上がって答えました。

休み時間になって、Vが不思議がって訊いてきました。

「○○ちゃんは寝てるのにどうして答えられるのー?」

Uがもっともらしく口を挟みました。

「それは睡眠学習っちゅうやつや。
 寝てるあいだに聞いたコトは忘れへんらしいで」

「ふーーん。わたしにはムリだよー。すごいねー」

Vはあっさり信じ込んで、感心しているようでした。
わたしは訂正する気にもなれず、話題を変えることにしました。

「文化祭の準備、進まないね」

「毎日放課後会議してるちゅうのに、やっと配役が決まったとこやからなぁ。
 こんなんでホンマに間に合うんかいな?
 アンタも体がしんどいんとちゃう? 最近休み多いやん」

「なんとかやってる。わたし、もともと体力ないから。
 授業出てないと、ノートが取れなくて困るね」

「授業出ててもアンタ寝てるやん」

「寝てないよ。時々起きてメモしてる」

わたしのノートは、極端に凝縮されたキーワードだけを連ねたような、
謎の暗号めいたものになっていました。

「でも、そろそろ台本が上がらないと、準備が進まないね」

Uとわたしは2人とも大道具係でした。
監督・脚本・照明・役者といった主要スタッフからすると重要度は落ちますが、
文化祭当日までに背景が完成していないと困ります。

「aを監督にしたんは失敗やったかなぁ」

Uが愚痴をこぼしました。

クラスで劇を選択したのは、女子のリーダーであるaの提案だったので、
仕切りたがるaに監督兼脚本という大役を任せたのですが、
肝心の脚本がなかなか完成しませんでした。

「Vも台詞覚えなくちゃいけないのにね」

「うん……ぜんぶ覚えられるかなー?」

Vは自信がなさそうでした。劇の主役のお姫様役は、Vなのです。

「だいじょうぶだよ。
 クラス当たりの持ち時間は制限されてるんだから、
 そんなに長くならないでしょ?」

ところが想像とは違って、放課後に配られた台本に目を通したわたしたちは、
顔を見合わせることになりました。

「これ、どない思う?」

「ちょっと待って。通して読んでみるから……」

読み終えたわたしは、声を低めてUとVに囁きかけました。

「お話としては、悪くないと思う。
 意味を取りにくいけど、ファンタジーだしね。
 でも……長すぎる」

「アンタもそう思うか?」

「うん。台詞が長すぎるし、場面も多すぎる。
 これじゃ持ち時間の2倍はかかっちゃう。
 こんなに場面転換が多かったら、背景のベニヤ板がぜんぜん足りない。
 クラスの制限時間を過ぎたら、本番では打ち切りでしょ?
 途中で終わったら、ぜんぜんワケわからなくなる。
 誤字が多くて、意味が通じない文もあるし……」

「どうしよー?」

Vは台本の長台詞を覚えようとして、もう泣きそうでした。

「せやけど、担任も担任やな……国語教師のくせに、
 こんな台本通すな!っちゅうねん」

「予定より遅れてたから、チェックしてる暇が無かったんだと思うよ。
 でも、このまま行ったら、劇にならないね……。
 大急ぎで、台本書き直してもらわないと」

「そんなに急にできるんか? 台本上げるだけで遅れてんのに」

わたしは天井を仰ぎました。

「無駄なところを削って、誤字を直すだけなら、わたしにもできると思う。
 でも、わたしたちが言っても、素直に直してくれるかな?」

「そんならわたしが担任に言うてくるわ。
 担任から言われたらaも直さなしゃあないやろ。
 担任にもちっとは責任取ってもらわなアカンしな」

「そうだね。
 V、そんなにあわてて台詞覚えなくて良いよ。
 どうせ台詞変わると思うから。
 わたし、これから家に帰って、台本直してくる。
 明日までにはなんとかするよ」

「アンタの役と違うのに、ムリしたらアカンで?」

「そうだけど、このままじゃ大道具の役もできないし、
 Vのお姫様姿、見たいもん」


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