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わたしのささやかな願いは、叶えられました。
ただ、退院してから入試の当日まで、あと2週間もありません。
今さらあわてて受験勉強をしても無駄でしょう。
無理をしたら、試験どころか再検査を受ける羽目になります。
入試の当日までは、体力を温存することに努めました。
まだ寒い季節でしたので、風邪を引かないことが第一です。
この時期に熱でも出したりしたら、今年の入試は絶望的です。
けれど、まったく外に出ないわけにもいきません。
わたしは願書を出した高校を、未だに一度も見ていませんでした。
方向音痴のわたしが当日の朝に迷子にでもなったら、悲劇というより喜劇です。
入試直前の日曜日、わたしは朝から出かけました。
制服のブレザーの下に厚手のセーターを着込み、オーバーコートにマフラー、
ウールの手袋をはめて靴下を二重にするという完全装備です。
空いたバスに30分ほど揺られて、高校の近くで降りました。
停留所から高校まで続く道は、少し勾配の急な登り坂になっていました。
坂道の両側には、真新しい一戸建ての住宅が建ち並んでいます。
ゆっくりゆっくり登っていくと、正面から吹き下ろしてくる風で顔が凍りそうでした。
わたしはきっと自分が引きつったすごい顔をしているだろうな、
と思いながら、涙目をぱちぱちさせました。
急に視界が開け、鉄筋コンクリートの校舎が見えてきました。
改装してそれほど間がないのか、クリーム色の外壁が綺麗です。
校門の赤い鉄扉は、少し開いていました。
わたしは扉と門柱の隙間をすり抜けて、中に入りました。
左手に見えるグラウンドの遠くの方では、
ユニフォームを着た一団がランニングをしています。
なにかの部活動なのでしょう。
初めての場所だけあって、なにを見ても物珍しく映ります。
校舎の周りを一周しようと、右手にある平屋の建物に向かいました。
中を覗いてみると、下足用のロッカーがぎっしり並んでいました。
左を見ると、校舎と校舎の間は中庭になっていて、花壇と池がありました。
人の気配はなく、部活のかけ声らしきものが遠くから聞こえてくるだけです。
奥の校舎の右側面を回り込むように足を進めました。
テニスコートがあり、緑色のジャージを着たペアが球を打ち合っていました。
高いフェンスの手前でしばらく佇んでいると……。
「なにをしてるの?」
突然だれかに声をかけられて、わたしはビクッと背を伸ばしました。
振り返ると、光沢のあるストレートの髪を肩まで伸ばした女の人が、
面白いものを見るような目で、わたしを見ています。
紺のブレザーとネクタイから、在校生と一目でわかりました。
「あの……わたしは受験生で……」
「あっ、そうか。下見に来たわけね」
「はい」
「部外者は立ち入り禁止なんだけど、それならいいんじゃない。
もしかしたらわたしの後輩になるわけね。
ちょうど用事が済んで帰るところだし、一回り案内してあげようか?」
「あ、はい。よろしくお願いします」
「わたしはi、よろしくね」
「はい、わたしは××と申します」
中学校の卒業を控えて、自分も少しは大人になったかも……
と考えていましたが、i先輩の落ち着いた物腰を見ていると、
自分がまだまだ子供に思えました。
歩きながら話してみると、先輩は生徒会の役員でした。
生徒会の仕事をするために、日曜日にわざわざ登校していたのです。
在校生がみんなこれほどしっかりしているわけではなさそうだとわかって、
内心ほっとしました。
「ふぅん、最近まで入院してたんだ。大変なのね。
試験、受かるといいね」
「はい、ありがとうございます」
「そんなに
わたしの弟もここを受験することになってるから、
もし同じクラスになったら仲良くしてやって。
もの凄い真面目クンだから、気に入るかどうか判らないけど。
あなたとは話が合うかも……」
先輩は弟のことを思い出しているのか、可笑しそうにくすくす笑いました。
そのあと先輩は、自転車を押してわたしをバス停まで見送ってくれました。
受験の当日は、下見の日とは打って変わって、校門をくぐる人波が途切れません。
真剣……というか、どの顔も緊張しきって、悲壮な顔つきをしています。
指定の教室に着いて、最後の準備をしました。
よく尖らせた鉛筆と消しゴムを、机の上に並べます。
わたしは駄目で元々と思いながら、張りつめた雰囲気に呑まれかけました。
前の席に腰を下ろした男子生徒が、筆箱を落として中身を床にぶちまけました。
ガチャーンという音に、みんなが注目しました。
男子生徒はもう、泣き出しそうです。
よく見ると、鉛筆の芯がみんな折れていました。
わたしはその男子生徒に、持っていった鉛筆の半分を差し出しました。
「どうぞ」
男子はきょとんとした顔でわたしを見てから、鉛筆を受け取りました。
「あ、ありがと」
「どういたしまして」
この男子生徒のおかげで、わたしはリラックスできました。
けれど、答案用紙は埋められても、自信はありませんでした。
やっぱり浪人かな……と。