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「え……?」

頭の中が、真っ白になりました。
わたしは口をぽかんと開け、お兄ちゃんの目を見ました。
吐く息が熱くなって、喉を灼くようでした。

お兄ちゃんは、うろたえた顔で言いました。

「……お前、なに真っ赤になってんだ。
 冗談に決まってるだろ?」

「……ウソ……だったの?」

お兄ちゃんが、こんな下品な冗談を口にするなんて、信じられませんでした。
胸の奥にある、お兄ちゃんの偶像に、細いヒビが入りました。
裏切られたような気がして、思わずお兄ちゃんを睨んでいました。

「……お兄ちゃんの、馬鹿ッ!」

わたしはお兄ちゃんを廊下に残して、脱衣所の扉を閉めました。
服を脱ぎ捨てて畳み、風呂場に入ると、自宅の2倍は広い、立派な檜風呂でした。
お湯には、白く濁る温泉の素が溶かしてありました。

わたしは目をつぶって、頭からお湯を被りながら、考えました。
お兄ちゃんは、変わってしまったんだろうか?
それとも、お兄ちゃんは昔のままで、わたしが知らなかっただけなんだろうか?

不安が、黒い雲のように胸を覆ってきました。
湯船に肩まで浸かっても、体が温まらないような気がしました。
日に当たった二の腕が、ぴりぴりと痛みました。

涙が、じんわり滲んできました。
わたしは何のために、はるばるやって来たんだろう、と思いました。
と、その時、ハッと一つの疑問に思い至りました。

前もって電話していないのに、どうしてお兄ちゃんは外に立っていたのか?
もしかして、わたしが来るのを、何時間もずっと待っていたんだろうか?
お兄ちゃんなら、きっと心配していたに違いありません。

どうしてその事を、今まで疑問に思わなかったのか、自分でも不思議でした。
そう言えば、わたしはまだ、お兄ちゃんにちゃんと挨拶さえしていません。

お兄ちゃんの外見が変わっていたので、気が動転していたのでしょう。
それならお兄ちゃんも、わたしが変わったのに動揺したのかもしれません。

わたしは、さっきお兄ちゃんを、馬鹿呼ばわりした事を思い出しました。
ふだんのわたしなら、そんな事をお兄ちゃんに言うなんて、考えられません。

つらつら考えているうちに、のぼせそうになってきました。
湯船から上がって、いつもの順番で機械的に体を洗いました。

もう一度きちんと、お兄ちゃんと話し合わなければいけない、と思いました。
せっかく7ヶ月ぶりに会えたのに、いきなり喧嘩するなんて、あんまりです。

どういう風に話をするか、じっくり考えながら、髪を洗います。
愛用のシャンプーとリンスとトリートメントを使って、
長い髪を整えるのは、けっこう時間が掛かります。

ようやく終わった時には、体が冷えてきました。
もう一度湯船に浸かって体を温めてから、風呂場を出ました。

脱衣所の籠の中に、タオルと、バスタオルと、男物の白いボタンダウンシャツが、
畳んで入れてありました。

ボタンダウンシャツは、洗いたてのようで、お兄ちゃんの匂いはしませんでした。

わたしはバスタオルで体を拭き、タオルで髪を包んで湿り気を取りました。
鏡を見ると、顔に血の気が戻っていました。

新品のショーツを穿き、薄いシャツを着てから、ボタンダウンシャツを
羽織ってみました。

わたしは去年より少し、胸が膨らんでいましたが、まだブラジャーが
必要になるほどではありません。

ボタンダウンシャツは、綾織りの透けない生地だったので、
暑くなりそうだと思って、素肌に着る事にしました。
ボタンの左右がブラウスと逆で、ボタンを穴にはめるのに苦労しました。

ボタンダウンシャツはぶかぶかで、袖口を何度も折り返す必要がありました。
最後にわたしは、リップクリームを取り出して、唇を塗り直しました。

お兄ちゃんの部屋に行く前に、客間に荷物を置きに行きました。
襖を開けると、中でお兄ちゃんが、胡座をかいて待っていました。

お兄ちゃんは膝立ちになり、がばっと畳に手を突いて、言いました。

「○○、すまん!  さっきはお兄ちゃん、どうかしてたみたいだ。
 許してくれ」

お兄ちゃんに、こんな情けない格好をさせてしまった、と罪悪感を覚え、
わたしも同じように、四つん這いになって言いました。

「いい。もう、怒ってない。
 それよりさっき、酷いこと言って、ごめんなさい。
 あれも、ウソ。
 だから、おあいこね」

お兄ちゃんは上体を起こして、にっこり笑いました。
白い歯がこぼれるのを見て、わたしは、ああ、お兄ちゃんの笑顔だ、
と思いました。

「……でも、あんな冗談、いつも言ってるの?」

「いや、そんなこと無いって。
 こっちのクラスの女子は開けっぴろげでさ。
 下ネタも平気で言うもんだから、つい、釣られてさ」

「……やっぱり、言ってるのね……」

「あんまり虐めるなよ……。どこでそんな言い方覚えたんだ?」


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