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入院生活も5回目となると、わたしは病院のヌシのようなものでした。
最初の時に新米だった看護婦さんも今ではベテランです。
新しく入ってきた看護婦さんよりも、
わたしの方が病院の事情に詳しかったかもしれません。

騒がしく馴染めないでいた教室や、あの父親の居る暗い自宅と比べると、
静かで少し消毒薬くさい病室は、わたしにとって心安らげる場所でした。

一日の大半を寝ているしかない漂白された日常の中で、
世界に彩りが戻るのは、UやVが来てくれた時、それから……。

読みかけの文庫本を枕元に伏せて、目を休めるために目蓋を閉じていると、
わたしにはいつもすぐに聞き分けられる、懐かしい足音がしました。

「○○……寝てるか?」

囁くような、小さな声でした。

「お兄ちゃん、来てくれたんだ」

目蓋を開いてお兄ちゃんの顔を見ると、自然に微笑みがこぼれました。

「ん……いつものやつ、持ってきたぞ」

冷やして蜂蜜をかけた、すり下ろしリンゴです。
スプーンですり下ろしリンゴを食べるわたしの顔を、
お兄ちゃんはしばらく黙って見ていました。

「思ったより元気そうで安心したよ」

「お兄ちゃんも」

お兄ちゃんの顔色は、やつれていた頃とは見違えるようでした。
こうしてお兄ちゃんのリンゴを食べていると、
3年以上も昔、最初に入院した当時に戻ったような錯覚がしました。
まだわたしが憎しみも失意も知らなかった、あの頃に。

「なにが可笑しいんだ?」

不思議そうにお兄ちゃんが訊きました。

「夢を、見ていたの。とても良い夢」

「どんな夢だ?」

「ごめんなさい。もう思い出せない。
 覚えているのは、良い夢だった……ってことだけ」

お兄ちゃんの問いかけをはぐらかして、にっこりと笑いました。
幻影だと解っていても、思い出さずにはいられない、
今の気持ちを話したら、心配するに違いないと思ったのです。

わたしはもう、無垢な小学生ではなく。
お兄ちゃんもまた、かつての万能に見えた完璧な偶像ではなく。
わたしたちは、ただの仲の良い兄妹ではなくなっていました。

あの頃に見えなかった色んなものが、今は見えました。
追いつけないほど大人だと思ったCさんの歳を、いつの間にか追い越して。
わたしは大人になったのでしょうか?

「いつまで思い出し笑いをしてるんだ?
 今度見たら、ちゃんと覚えて教えてくれよ」

わたしに釣られた満面の笑顔で、お兄ちゃんが言いました。

「うん。お兄ちゃんにだけ教えてあげる」

それからお兄ちゃんは仕事場の喫茶店で会った変なお客さんの話を、
面白おかしく語ってくれました。
相づちを打ちながら、お兄ちゃんの顔に見入りました。

以前のように力強く、自信に溢れた精悍な男の顔。
けれどその背後に深い苦しみと悲しみが隠されているのが、
今のわたしには判ってしまいます。

わたしより先に大人になって、どれほどの孤独に耐えてきたのか……。
それを尋ねるわけにはいきません。
お兄ちゃんがわたしを守ろうとした努力を、無にすることになりますから。

できるのは、ただひたすら目で語りかけることだけです。
こんなに弱いわたしなのに、力が湧いてくるようでした。

(お兄ちゃん……無理はしないで。わたしは大丈夫だから)

「ん……どうした? 真剣な顔して」

「え? なんでもない」

「そうか……?
 ところで、高校の入試までに退院できるかな……。
 先生はなんて言ってる?」

「微妙だって。退院できなかったら浪人決定ね。
 試験ぐらいは受けておきたいけど……」

「まあ、今さらジタバタしてもしょうがないさ。
 もし駄目でも、長い目で見たら1年ぐらいどうってことないって」

お兄ちゃんはことさらなんでもない風に言いました。

「もし受験できたら、発表の日はいっしょに見に行こう。
 合格のお祝いもしなくちゃいけないし」

「え……でも、どうせ不合格だと思う。ちっとも受験勉強してないから」

「それでもいいよ。その時は残念会にするだけさ。
 ご馳走でも食べに行こう。
 あ……ふつうのレストランだとまだ駄目か」

「パフェならだいじょうぶ」

受験の日までに退院できればいいな……と思いました。
自宅に帰りたかったわけではありません。
でも、お兄ちゃんを失望させたくはなかったのです。


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