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おそるおそる見ると、お兄ちゃんは目を細め眉根を寄せていました。
「なにか言うことは?」
めったに見たことのないお兄ちゃんの怖い顔を見て、
わたしは心臓がばくばく言いはじめました。
「……心配かけたらいけない、と思って……」
「そうじゃないだろ?」
がしっ、と大きな手で額を掴まれました。
お兄ちゃんの手のひらで、前が見えなくなりました。
催眠術をかけられたみたいに、わたしは身動きできなくなりました。
耳元で、お兄ちゃんが囁きました。
「お前がまた入院したって聞いて、俺がどれだけ心配したと思う?」
「ご……ごめんなさい」
「もう俺には隠すなよ?」
「はい」
「よし」
お兄ちゃんは反対側の手で、わたしの首筋を掴みました。
そのまま、こめかみと首筋を揉みほぐしてくれました。
頭がぼーっとするほどの気持ちよさでした。
「○○……痩せたな」
「……うん」
お兄ちゃんは手を離して、枕元の丸椅子に腰掛けました。
「ちゃんと食べなくちゃな」
「うん」
お兄ちゃんはナイフとリンゴを取り出して、皮を剥き始めました。
わたしは枕に頭を横たえて、リンゴを剥く指先を飽きずに眺めました。
お兄ちゃんは黙ってリンゴを一口大に切り分け、
1個ずつわたしの口に押し込みました。甘いリンゴでした。
わたしが食べ終わると、お兄ちゃんは立ち上がりました。
「先生に会ってくる」
「いってらっしゃい」
お兄ちゃんの背中がドアの向こうに消えた後も、
わたしは病室のドアを見つめ続けました。
モノトーンだった世界に、生気が戻ったようでした。
向かいのベッドに付き添っている、名前を知らないおばさんが、
わたしに話しかけてきました。
「○○ちゃん、いまの人、彼氏?」
振り向くと、興味津々と言った顔つきでした。
視線をめぐらすと、病室中の視線がわたしに集中していました。
首筋や顔に血が集まってきて、熱くなりました。
「ち、違います。兄です」
「あ、そうなの」
そのおばさんはなぜか、ガッカリした様子でした。
わたしは読みかけの本を開いて、読んでいるふりをしましたが、
まったく頭に入りませんでした。
お兄ちゃんは帰ってくると、病室の他のベッドを1つ1つ回って、
頭を下げました。
また丸椅子に腰を下ろしたお兄ちゃんは、真剣な表情でした。
「○○……いま聞いてきたんだが」
「お兄ちゃん」
「ん、なんだ?」
話の腰を折られて、お兄ちゃんが訊き返しました。
「談話室に行かない?」
病室中の人が、息をひそめて聞き耳を立てているようでした。
「歩けるのか?」
「毎日歩いていないと、足が弱っちゃうから」
わたしは毎日トイレまで、自力で歩いていました。
お兄ちゃんの手を借りて、わたしはスリッパを履き、
サイドテーブルの後ろから、杖を取り出しました。
「お前……足が?」
「原因不明だけど、右の股関節と膝が痛いの」
腎炎の症状の1つか、それとも薬の副作用なのか、
右の股関節と膝関節の軟骨が、柔軟性を失っているようでした。
体重をかけると、キリで突いたような痛みが走ります。
お兄ちゃんと左手をつないで、杖を突いて、談話室までゆっくりと歩きました。
談話室の窓から見える景色は、殺風景な真新しい新棟でした。
ソファーに腰を下ろして、窓に目を向けながら、お兄ちゃんは話し始めました。
「先生に聞いてきたけど……今度は長くかかりそうだってな。
治るまで10年単位で考えないといけないって……」
「知ってる」
病状については、O先生から詳しい説明を受けていました。
隠していても、わたしなら勝手に調べてしまうだろうから、と。
ふつうの意味での「完治」は期待できないということも。
たぶん一生、病気と付き合って生きることになる、とわかっていました。
「それでな、俺は決めた」
「なにを?」
「俺はこっちに戻ってくる」