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「…………」

R君は、露骨にわたしの眼差しを避けて、視線を泳がせました。
なにかとてもまずいことを聞いてしまったのだ、わたしはと思いました。
わたしは立ち上がって言いました。

「わたし、帰る」

「あっ……そうだ、××さん、家に来ない?」

わたしは小首を傾げました。

「なぜ?」

「あのさ、おせち料理があるよ」

わたしが痩せているので、満足に食事を与えられていないように見えるのか、
と思いました。

「いい。お塩の入った料理は食べられないし、
 冷蔵庫に買い置きがあるから。自分で料理できる」

「そ、そう?」

「……さよなら」

「家まで送るよ」

涙を見られたので、同情されているのだろうと思いました。
それがなんだか、とても嫌でした。

「……R君はまだ、お参りしてないでしょ?
 今夜は人通りも多いし、危なくないと思う」

「う、うん……じゃ、また新学期に」

「また」

R君と別れて、夜道をひとり歩きました。
コンビニのゴミ箱に、紙コップを捨てました。
ポケットに手を突っ込むと、お守りが指に当たりました。

お兄ちゃん……お兄ちゃん……お兄ちゃん……。
Sさんが居ても良いから、兄としてだけでも良いから、
そばにいて欲しいと思いました。

家に帰ってすぐ、お兄ちゃんの部屋に忍び込みました。
服を脱いで、お兄ちゃんの匂いが消えたベッドに潜り込み、丸くなりました。
冷えた布団が暖まるまで、寝付くことはできませんでした。

朝早く、目が覚めました。なにか、音がしています。
頭がはっきりしてきて、電話機が鳴っているのだとわかりました。
ベッドを飛び出して、階段を駆け下りました。

「もしもし……?」

「○○、明けましておめでとう」

「お兄ちゃん? 明けましておめでとう」

「寝てたのか?」

「うん……いま、起きたところ」

「悪い。起こしちゃったか。
 声が変だけど、風邪引いてないだろうな?」

「うん、だいじょうぶ。お兄ちゃんは?」

「へーきへーき。俺のコトは心配ないって」

「初詣行った?」

「ああ、ついでに除夜の鐘も撞いてきたぞ」

「ホント? 凄い。誰と行ったの?」

「友達大勢とさ……○○、お前は、ひとりで行ったのか?」

お兄ちゃんの声が、優しくなりました。

「うん。神社で、R君と会ったけど」

「なにぃ? 約束してたのか?」

「違う。偶然」

「……まあ……いいさ。友達になれるかもしれないじゃないか」

わたしは、はあはあと息をつきました。胸が苦しくなっていました。

「……友達? わたし、上手くしゃべれないから、無理だと思う。
 やっぱり……お兄ちゃんのほうが良い」

「○○……」

「ごめんなさい。わがまま言って。
 お兄ちゃんはそっちで頑張って。わたしも、頑張るから」

「ああ……俺も、ホントは帰りたい。
 でも今は、それぞれ頑張ろう、な?」

「うん。そうだ、お守り貰ってきた。すぐに送るね」

「ああ、ありがと」

電話が終わって、わたしはしばらくそのままぼうっとしていました。
声を聞いただけで、こんなに体が暖かくなって、恋しさが募る。
お兄ちゃんは、なんて不思議な力を持っているんだろう、と思いました。

新学期が始まりました。小学校最後の3学期です。
わたしは、絶対に風邪を引かないように、疲れないようにと、
それを何より優先しました。

風邪を引いたら、また入院することになる可能性が高かったからです。
大事な時期に、お兄ちゃんに心配を掛けることだけは避けなければなりません。

もともとのんびりしていた喋り方も、立ち居振る舞いも、呼吸さえ、
意識してもっとゆっくりさせました。

アルバム委員として、卒業文集を制作する予定がありました。
全員が書いた作文の原稿を、職員室の古いワープロに打ち込んで、
謄写版印刷の原版を作り、印刷、製本する仕事です。

わたしは昼休みや放課後に、こつこつと自分の担当の分を入力しました。
ワープロの操作に慣れていなかったので、ずいぶん時間が掛かりました。

ある日の放課後、わたしとR君を含めた4人が、放課後に残って、
職員室の隣の印刷室で、印刷と製本をすることになりました。
手分けして作業すれば、そんなに時間はかからないはずでした。


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