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外来でわたしは毎月一度は病院を訪れていましたけど、
小児科病棟へのエレベーターに乗るのは久しぶりでした。
磨かれた廊下と手すりは、変わったようには見えませんでした。
でも、ナースステーションに貼ってある、子供の描いた絵や壁新聞は、
すっかり入れ替わっていました。
壁新聞に書かれた子供たちの名前には、1つも見覚えがありません。
ナースステーションに詰めている看護婦さんも、知らない人でした。
「あなたお見舞い? 今日はまだ学校あるんじゃないの?」
「外来です。去年、わたしもここに入院してました。
久しぶりに見に来ただけです」
「あ、そうなの。わたしは今年入ったばっかりだから」
わたしは一礼して、エレベーターの前に戻りました。
わたしの居た痕跡は、もうここには残っていないようでした。
ふと、入院していた時に食堂の窓から見えた、紅葉を思い出しました。
紅葉の時季には早すぎましたが、食堂に行ってみることにしました。
食事の時間ではないので、食堂には
開いたままのドアを抜けて、わたしは中に入りました。
そして、大きな窓越しに見えた光景に、立ち尽くしました。
紅葉どころか、木々そのものが、裏山の半分が、無くなっていました。
削り取られたように切り立った、剥き出しの茶色い土が露出していました。
窓枠に手をかけて、よく見ると、平らに
コンクリートで土台のようなものが造られていました。
「ちょっと。あんた誰?」
後ろから声をかけられて、びくっとしました。
振り返ると、見覚えのある賄いのおばさんでした。
「あんた、前にここに居た子だね。顔覚えてるよ。また入院?」
「いいえ、今は通院です。今日は久しぶりに病棟を見に来ただけです。
入院中はお世話になりました」
「そうかい、元気になって良かった。何見てたの?」
「裏山の木を見ようと思ったんですけど……」
「ああアレね。裏山潰しちゃって勿体ないことするもんだよ。
いい眺めだったのにねぇ。
せっかく来たのに、見るモンなくなっちゃったね」
「ホントに……」
わたしはおばさんに一礼して、エレベーターホールに戻りました。
エレベーターが来るのを待ちながら、物思いに耽りました。
思い出の風景は消え去り、わたしを覚えている人も少なくなっていきます。
そうだ、屋上がある、と思いました。
屋上からの眺めは、そんなに変わっていないはずです。
わたしはエレベーターに乗り込んで、屋上行きのボタンを押しました。
屋上で降りると、少し風がありました。
並んだ物干し竿に、たくさんの洗濯物が揺れていました。
フェンスのそばに歩み寄り、遠くの街を眺めました。
1年前と変わっているのかいないのか、区別がつきませんでした。
フェンスの網を握りしめて、わたしは思いました。
人の想いって、なんなんだろう、と。
いやじゃ姫の顔や声は覚えているけど、名前は忘れてしまった。
いつか、顔も名前も記憶の中で薄れていくのだろうか?
いやじゃ姫のお母さんや賄いのおばさんは、わたしの顔を覚えていた。
でも、いつかは忘れて、会ってもわからなくなるのだろうか?
鮮明に思い浮かべることのできる、お兄ちゃんの顔も声も、
ずっと離れていたら、いつの日かあやふやになってしまうのだろうか?
わたしのことを、まだお兄ちゃんははっきりと覚えているだろうか?
時の流れが、あらゆるものを押し流していくような気がしました。
百年経ったら、わたしもお兄ちゃんも生きてはいません。
わたしとお兄ちゃんを覚えている人も、居なくなっているでしょう。
広すぎる孤独な宇宙で、自分が一粒の砂になったようでした。
中学生にはありふれた感慨なのかもしれませんが、それが実感でした。
風で体が冷えてきたので、わたしはフェンスから離れました。
待合室に降りると、わたしの順番はまだ先でした。
わたしは何をする気にもなれず、ただ窓の外の並木を眺めました。
その日の検査の結果には、特に問題がありませんでした。
それから登校して、午後の授業を受けました。
少し疲れていたので、机にうつぶせになって、半分ぐらい寝ていました。
放課後は、Uたちと寄り道しないで、まっすぐ帰りました。
独りで夕食を済ませたあと、わたしは電話機の前に座りました。
お兄ちゃんに電話をかけるのは、めったにない事でした。
お兄ちゃんが出てくれるかどうか、どきどきと胸が高鳴りました。
「はい。××です」
お兄ちゃんの声でした。
「お兄ちゃん? わたし、○○」
「お前か? 珍しいな、電話してくるなんて。何かあったのか?」
かすかに心配そうな響きがありました。
「なんでもない。今日、病院に行ったけど、順調だった。
入院してた時に同じ病室だった、女の子のお母さんに偶然会った。
わたしのこと覚えててくれた」
「そうか、良かったな」
「わたしはその子の名前忘れちゃったのにね……。
お兄ちゃん……わたしのこと、忘れないでね」