204:



外来でわたしは毎月一度は病院を訪れていましたけど、
小児科病棟へのエレベーターに乗るのは久しぶりでした。

磨かれた廊下と手すりは、変わったようには見えませんでした。
でも、ナースステーションに貼ってある、子供の描いた絵や壁新聞は、
すっかり入れ替わっていました。

壁新聞に書かれた子供たちの名前には、1つも見覚えがありません。
ナースステーションに詰めている看護婦さんも、知らない人でした。

「あなたお見舞い? 今日はまだ学校あるんじゃないの?」

「外来です。去年、わたしもここに入院してました。
 久しぶりに見に来ただけです」

「あ、そうなの。わたしは今年入ったばっかりだから」

わたしは一礼して、エレベーターの前に戻りました。
わたしの居た痕跡は、もうここには残っていないようでした。

ふと、入院していた時に食堂の窓から見えた、紅葉を思い出しました。
紅葉の時季には早すぎましたが、食堂に行ってみることにしました。

食事の時間ではないので、食堂には人気ひとけがしませんでした。
開いたままのドアを抜けて、わたしは中に入りました。
そして、大きな窓越しに見えた光景に、立ち尽くしました。

紅葉どころか、木々そのものが、裏山の半分が、無くなっていました。
削り取られたように切り立った、剥き出しの茶色い土が露出していました。
窓枠に手をかけて、よく見ると、平らにならされた地面には、
コンクリートで土台のようなものが造られていました。

「ちょっと。あんた誰?」

後ろから声をかけられて、びくっとしました。
振り返ると、見覚えのある賄いのおばさんでした。

「あんた、前にここに居た子だね。顔覚えてるよ。また入院?」

「いいえ、今は通院です。今日は久しぶりに病棟を見に来ただけです。
 入院中はお世話になりました」

「そうかい、元気になって良かった。何見てたの?」

「裏山の木を見ようと思ったんですけど……」

「ああアレね。裏山潰しちゃって勿体ないことするもんだよ。
 いい眺めだったのにねぇ。
 せっかく来たのに、見るモンなくなっちゃったね」

「ホントに……」

わたしはおばさんに一礼して、エレベーターホールに戻りました。
エレベーターが来るのを待ちながら、物思いに耽りました。
思い出の風景は消え去り、わたしを覚えている人も少なくなっていきます。

そうだ、屋上がある、と思いました。
屋上からの眺めは、そんなに変わっていないはずです。

わたしはエレベーターに乗り込んで、屋上行きのボタンを押しました。
屋上で降りると、少し風がありました。
並んだ物干し竿に、たくさんの洗濯物が揺れていました。

フェンスのそばに歩み寄り、遠くの街を眺めました。
1年前と変わっているのかいないのか、区別がつきませんでした。

フェンスの網を握りしめて、わたしは思いました。
人の想いって、なんなんだろう、と。

いやじゃ姫の顔や声は覚えているけど、名前は忘れてしまった。
いつか、顔も名前も記憶の中で薄れていくのだろうか?

いやじゃ姫のお母さんや賄いのおばさんは、わたしの顔を覚えていた。
でも、いつかは忘れて、会ってもわからなくなるのだろうか?

鮮明に思い浮かべることのできる、お兄ちゃんの顔も声も、
ずっと離れていたら、いつの日かあやふやになってしまうのだろうか?
わたしのことを、まだお兄ちゃんははっきりと覚えているだろうか?

時の流れが、あらゆるものを押し流していくような気がしました。
百年経ったら、わたしもお兄ちゃんも生きてはいません。
わたしとお兄ちゃんを覚えている人も、居なくなっているでしょう。

広すぎる孤独な宇宙で、自分が一粒の砂になったようでした。
中学生にはありふれた感慨なのかもしれませんが、それが実感でした。

風で体が冷えてきたので、わたしはフェンスから離れました。
待合室に降りると、わたしの順番はまだ先でした。
わたしは何をする気にもなれず、ただ窓の外の並木を眺めました。

その日の検査の結果には、特に問題がありませんでした。
それから登校して、午後の授業を受けました。
少し疲れていたので、机にうつぶせになって、半分ぐらい寝ていました。

放課後は、Uたちと寄り道しないで、まっすぐ帰りました。
独りで夕食を済ませたあと、わたしは電話機の前に座りました。

お兄ちゃんに電話をかけるのは、めったにない事でした。
お兄ちゃんが出てくれるかどうか、どきどきと胸が高鳴りました。

「はい。××です」

お兄ちゃんの声でした。

「お兄ちゃん? わたし、○○」

「お前か? 珍しいな、電話してくるなんて。何かあったのか?」

かすかに心配そうな響きがありました。

「なんでもない。今日、病院に行ったけど、順調だった。
 入院してた時に同じ病室だった、女の子のお母さんに偶然会った。
 わたしのこと覚えててくれた」

「そうか、良かったな」

「わたしはその子の名前忘れちゃったのにね……。
 お兄ちゃん……わたしのこと、忘れないでね」


残り127文字