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観覧車に向かう途中にレストランがありましたが、行列が出来ていました。
お兄ちゃんが、屋台でホットドッグとジュースを買いました。
車止めの柵にもたれて、ホットドッグをかじりました。
お兄ちゃんが先に1本食べ尽くしてしまったので、わたしのを半分あげました。

観覧車の下に着くと、長い行列が伸びていました。
少しずつ列を進みながら、観覧車を見上げました。
夜空に浮かぶゴンドラは、非現実的な高みをゆっくりと動いていました。

わたしたちの順番が来ました。
地面すれすれを滑るゴンドラに、お兄ちゃんの手を借りて乗り込みました。
お兄ちゃんが続いて入ってきて、わたしの隣に座りました。

ゴンドラの中は、2人掛けの椅子が向かい合った小さな密室でした。
夜の闇の中を、わたしたちはゆらゆら揺れながら昇って行きました。

「すごい……」

わたしは目をみはりました。
暗色の空と海、そして地上の星のように瞬く街の灯りが広がっています。

ふと、黙っているお兄ちゃんの顔を、横目でうかがいました。
お兄ちゃんの眼差しは、無限の彼方に注がれていました。

「お兄ちゃん……?」

「んん?」

ため息のような返事でした。
お兄ちゃんは、前にCさんと、この観覧車に乗ったのだ、と思いました。

「お兄ちゃん……泣いてる?」

声も涙も出ていないのに、お兄ちゃんが泣いている気がしました。
わたしの胸に、お兄ちゃんの悲しみが、どっと流れ込んできました。

「え? なに言ってんだ?」

こちらを向いたお兄ちゃんの顔は、薄明かりの中で妙に弱々しげに見えました。
わたしは鼻の奥が、つんと熱くなりました。

「お前こそ……なんで泣いてるんだ?」

わたしは黙って、お兄ちゃんの襟首に顔を埋めました。
シャツの胸元が、涙のしずくで濡れました。
お兄ちゃんは、わけがわからない風に、わたしの肩をさすりました。

正直なところ、わたしにもわけがわかりませんでした。
疲れて情緒が不安定になっていたのかもしれません。

観覧車を降りてから、お兄ちゃんに手を引かれて、バス停まで歩きました。
バスの中でも、列車でも、空席がなくて立ったまま、わたしはうとうとしました。
お兄ちゃんの身体にもたれかかって、やっと立っていたようなものです。

駅に着く頃の記憶は、途切れ途切れです。
そこからどうやって家に帰ったのか、どうしても思い出せません。

尿意で目覚めると、自分のベッドの中でした。
もう、夜半過ぎでした。
いつの間にか、洗濯したばかりのパジャマを着ていました。

廊下に出て、お兄ちゃんの部屋のドアに、耳を当てました。
お兄ちゃんは、寝ているようでした。
トイレから帰ってきて、汗じみた下着を取り替えてから寝ました。

朝起きると、体が重く感じられました。
今日は、病院に検査に行こう、と思いました。
トイレで、使い捨ての紙コップにおしっこをして、広口の空き瓶に移しました。

お兄ちゃんは食堂に居ました。

「○○、おはよう。早いな。今日はのんびりしてるかと思った」

「おはよう、お兄ちゃん。今日は、病院に行くから」

「ん? 具合悪いのか? 昨日、連れ回したせいかな……」

「前に行ってから、そろそろひと月経つの。
 尿と血の検査をしてもらわないと」

「そっか。じゃ、朝ご飯食べたらボチボチ出かけるか」

「うん」

病院に行くには、バスに乗らなければなりません。
家の近くにも診療所はありましたが、O先生は小児腎炎の専門家でした。

駅前で一度バスを降りて、病院行きのバスに乗り換えました。
乗客は病人らしい人とお年寄りが多かったので、お兄ちゃんは立っていました。

「けっこう時間かかるんだな」

「うん。着いたら、診察まで、3時間ぐらい待たされる」

「うわ。どうやって暇を潰すんだ?」

「3時間あれば、文庫本が1冊読める」

「そのポーチに入ってるのか?」

「今日は持ってきてない。お兄ちゃんが居るから」

「じゃあ、中学校の話でもするか。まだ教師はそんなに替わってないだろ」

病院に着いて、受付で保険証を見せ、診察カードを渡すと、
天井を走る自動搬送機が、カルテを小児科外来に運びます。

小児科外来の窓口で、尿検査の複写用紙を貰って、検査室のトイレで、
紙コップに来院尿を採り、早朝尿を移した紙コップと並べて提出します。

診察開始時間までまだ、2時間ほどありました。
売店に行くと、おばさんはお兄ちゃんを覚えていました。

カップアイスを2つ買って、小児科外来の前のソファーで食べました。
小さい子供や付き添いのお母さんたちの中で、お兄ちゃんは目立ちました。

お兄ちゃんが、中学校の建物や、先生方の逸話を披露してくれました。
待ち時間は、見る見るうちに過ぎて行きました。


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