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1ヶ月ほど過ぎて、わたしの病状は徐々に快復してきました。
でも、いつまで経っても退院の許可が下りません。
同じ病室の他の患者さんは次々と退院していき、
わたしが一番の古株になっていました。
不審に思っていると、O先生が回診の時に説明してくれました。
「普通だったらもう自宅療養に切り替えるところなんだけどね。
あなたの場合は……自宅に戻ると悪化する可能性があるから。
今退院しても、どうせ1学期の間は学校には通えないし、
もっと体力が回復するまでここに居なさい。
ベッドに空きがなくなったら退院してもらわないといけないけど」
「わかりました。ありがとうございます」
O先生はわたしの家庭の事情を察しているようでした。
看護婦さんたちも、以前のQさんほどではないにしても、
とても親切にしてくれました。
その後、見舞いに来たお兄ちゃんにO先生の話をしました。
お兄ちゃんはうなずきました。
「そうだな……先生の好意に甘えたほうがいい。
俺たちはいつも、外ではいい人に巡り会うなぁ……」
両親に関係する話題になると、お兄ちゃんの眼差しは微妙に
わたし以外の人は、それに気づかないかもしれません。
太陽に雲がかかったように、瞳が暗くなるのです。
お兄ちゃんは、家でどんな表情をして、あの父親と
想像するだけで寒気がしてきました。
きっと一言も口を利かず、父親の勝手な小言を聞き流しているのでしょう。
家に居ることで、お兄ちゃんの魂がどんどん磨り減ってしまうような、
そんな気がしました。
わたしのために、お兄ちゃんは田舎での生活を捨てて帰ってきてくれました。
その代償が、家の中で揉め事を起こさないように、
あの父親の理不尽なお説教に耐えることなのかと思うと、
なんともいたたまれない気持ちになります。
「お兄ちゃん……学校でお友達できた?」
お兄ちゃんの顔が、得意そうに輝きました。
「おう、3年になってからの転校生は珍しいせいかな、
ちょっとしたスター気分だ。
どういうわけか下級生にまで名前を知られてるみたいだ」
確かに……お兄ちゃんだったら目立つだろうな、と思いました。
絶対に間違いなく、男子からも女子からも好かれるでしょう……。
「ま、俺のことは心配すんな。お前と違って要領がいいからな。
お前は……3年生になってからほとんど病院暮らしだもんな。
新しい友達は無理か……。
高校生になったら、また友達もできるさ。
UちゃんやVちゃんとはまだ親友なんだろ?」
「うん、二人とも受験で忙しいのにお見舞いに来てくれる。
最高の友達」
寝ているわたしの髪を、お兄ちゃんが慈しむようにそっと撫でました。
「よかったな。良い友達は宝物みたいなもんだ。
俺には友達がたくさんいるけど、最高って言えるのは何人かな……。
本心を明かせる友達は、要領が良くてもできるもんじゃないからな。
そんな友達が二人も居るお前は、運が良いと思うぞ」
お兄ちゃんの口調に、ほんの一瞬だけ寂しさが垣間見えたような気がしました。
わたしは無言で、手招きしました。
ん?と不思議そうにしながら、お兄ちゃんがベッドの上に身を乗り出しました。
わたしはお兄ちゃんの真似をして、目の前のふわふわした癖毛を撫でました。
お兄ちゃんはくすぐったそうにビクリと首をすくめましたが、
そのまま黙って目蓋を閉じ、撫でられるままにしていました。
「ありがと……○○」
「…………」
わたしにできることは、それぐらいしかありませんでした。
胸騒ぎを抑えながら、わたしは自分の無力さを噛みしめました。
時が過ぎて、夏休みに入りました。
ずっと入院していたわたしには実感がありませんでしたけど。
そろそろ退院の予定が立ちそうでした。
そんなある日、お兄ちゃんが病室を訪れました……強張った表情で。
一目見て、わたしは来るべき日が来た、と直感しました。
お兄ちゃんの目は、鬼神のようにぎらぎらと燃えていました。
丸椅子に座り込んで、口を
わたしはおそるおそる声をかけました。
「お兄ちゃん……どうかした?」
お兄ちゃんは歯を食いしばり、わたしを横目でじろりと見ました。
「……どうして……言ってくれなかったんだ?」
「……!」
「さっき、看護婦さんから話を聞いたよ。
どうして一度治りかけてたお前を無理やりに退院させたのかって。
取り返しのつかないことになるかもしれなかったらしい。
お兄さんがしっかりしてなくちゃダメだって、責められたよ。
あの……クソ野郎が……許せねぇ」
父親のしたことは、すっかりバレていました。
わたしは、ずっと考えていたある決心を、否応なく固めました。