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「小さいとき俺が弱虫だった話は、前にしたことあるよな?」
「うん……」
まだ、そんなお兄ちゃんは想像できませんでした。
お兄ちゃんはくすっと笑って、話を続けました。
「俺は女の子にも泣かされるぐらいだったんだ。
お前が元気だったのと反対に、俺はひょろひょろだったしな。
それにお前は小学校に上がる前から勉強ができた。
テレビはNHK教育ばっかり見てたんだぞ、お前は」
その頃の記憶は、わたしには残っていません。
「俺が学校の宿題をしていると、お前が来て教えてくれるんだ……。
俺には読めない漢字が読めたし、算数もできた。
同じ兄妹なのになんでこんなに出来が違うんだろうって、
ずいぶん情けなかったよ……」
「お兄ちゃん……?」
「そんなすまなそうな声出すな。
お前は別に悪くないんだ。俺がひがんでただけだ。
それなのに、お前は小学校に上がる前にひどい熱を出して、
それから体が弱くなっちまった。
俺はなぁ……お前を守れるようにならないといけない、って思った。
サッカー始めて毎日走るようにしてな。
泣かなくなった。
喧嘩もするようになった。
勉強も、頑張ったよ。
お前は俺が賢いって思ってたけど、こっそり勉強してたんだぞ。
お前にダメな兄貴だと思われたくなくてな」
お兄ちゃんは、大きくため息をつきました。
わたしにとって、お兄ちゃんはこれまでずっと、完璧でした。
勉強もスポーツもできて、手先が器用で家事も得意だったからです。
まったく違うお兄ちゃん像を知らされて、わたしは息を呑むだけでした。
「妹と遊ぶのを笑う奴は、黙らせてやった。
妹を泣かすより、笑わせたほうが格好良いじゃないか。
俺が大人っぽくなったとしたら、それはお前のおかげなんだ。
お前が居なかったら……俺はまだ弱虫で馬鹿なガキだったと思うよ。
だから、負担だなんてそんな悲しいコト言うな。
お前はずっと、俺より大人だったよ。
大人だって、たまには甘えたくなることがあるんだ。
お前もたまには、兄ちゃんにわがまま言って困らせてくれ。
お前が泣いてるより笑ってるほうが嬉しいんだ。
……な?」
お兄ちゃんはわたしを抱き寄せて、髪を撫でました。
顔をお兄ちゃんの肩に埋めると、また涙が湧いてきました。
わたしは声を殺して泣きながら思いました。やっぱり自分はまだ子供だと。
でも、お兄ちゃんになら、そんな恥ずかしい姿を見られても良い、と。
しばらく抱きついていると、お兄ちゃんがわたしの顔を上げさせて、
目蓋を舐めました。
わたしが目をぱちくりさせると、お兄ちゃんは笑いだしました。
「ちょっとしょっぱいな。涙は止まったか?
顔洗ってこいよ。そのあいだにみそ汁温めなおしとく」
洗面所で顔を洗ってダイニングに行くと、お兄ちゃんが待っていました。
わたしがご飯をよそい、お茶を淹れて、朝ご飯が始まりました。
言葉を交わさなくても、今までで一番お兄ちゃんに近づいたような、
そんな気がしました。
親密な時間は、一瞬一瞬が夢のようで、でもするすると過ぎていきます。
やがて、登校日が来ました。
わたしとお兄ちゃんは、いっしょに玄関を出ました。
お兄ちゃんはこれから友達に会うと言って、自転車に乗っています。
「後ろに乗れよ」
自転車での通学は校則違反でした。おまけに、2人乗りです。
「でも……」
「途中までならバレないって」
わたしは荷台に横座りして、お兄ちゃんの腰に掴まりました。
学校の近くまで来て、自転車から降りました。
お兄ちゃんは手を振りながら遠ざかっていきました。
教室に入ると、まだUやVは来ていませんでした。
早く来て談笑しているクラスメイトたちの中に、b君の姿が見えました。
わたしはこの時まで、b君のことをすっかり忘れていました。
じっと顔を見ていると、b君がわたしの視線に気づきました。
一瞬だけ目が合って、b君は素早く目を逸らしました。
まるでわたしが存在しなくなったように。
帰り際にわたしのそばを通る時、b君はわたしを見もしませんでした。
わたしは、お兄ちゃんとb君の「話し合い」がどんなものだったのか、
改めて疑念を抱きました。
「○○、bとはホンマに手が切れたみたいやな。
今日は帰りどっか寄っていこか?」
「ごめんU……今日は早く帰る」
「つれないなぁ。兄ちゃんが帰ってきてからアンタ、付き合い悪いで」