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赤ん坊の心臓は、左右の部屋を分ける壁に穴が開いていて、
汚い血と綺麗な血が混じってしまうのだそうです。
Pさんという名前のその女の人が、赤ん坊のお母さんでした。
驚いたことに赤ん坊はもう、1歳の誕生日を過ぎていました。
生まれつき未熟児で、なかなか体重が増えないので、
1歳過ぎてもまだ数ヶ月にしか見えない、とPさんは寂しそうに言いました。
突然病室の扉が開いて、わたしのお母さんが入って来ました。
仕事先から直接来たらしく、スーツを着て濃い化粧をしていました。
「○○、どうして急にこんなことになったの?」
それはわたしが答えを知りたい疑問でした。
急に病気になったことを、責められているような気がしました。
「……わからない。O先生は、検査すればわかるって言った」
「お母さん、すぐに行かなくちゃいけないから、
必要な物があったらこれで買いなさい」
お母さんは、わたしの枕元に封筒を置いて、呼び止める暇もなく、
帰って行きました。
封筒を覗くと、中に一万円札が10枚ほど入っていました。
横で見ていたPさんは、呆気に取られた様子でした。
部屋に沈黙が流れているうちに、夕食の時間になりました。
ピンク色の白衣を着た看護婦さんが、食膳を持って来ました。
後で、ピンク色の白衣は看護学生の印だとわかりました。
わたしの夕食は、リンゴが1個と氷砂糖が2個でした。
わたしが食べずに寝たままでいると、Pさんが歩み寄って来て、
枕元の椅子に座りました。
「リンゴの皮、剥いてあげる」
Pさんは、果物ナイフでリンゴの皮を綺麗に剥いて、
食べやすいように八つに切ってくれました。
「ありがとうございます」
わたしは頭を下げて、酸っぱいリンゴを食べました。
食後の薬を飲んだ後、担任の先生がやってきました。
急いでいたのか、息を少し切らしていました。
「ごめんなさい、遅くなっちゃって。
お母さんはまだ来てないの?」
「母は、もう来ました。
このお金を置いて、帰りました」
先生がぽかんとした顔になったので、わたしは顔を背けました。
「ちょっと……」
向こうからPさんが先生を手招きし、一緒に病室から出ていきました。
しばらくして戻ってきた先生は、変な顔をしていました。
にこにこしているのに、目だけが笑っていませんでした。
「××さん、何か欲しい物はない?」
「……えっと、パジャマと下着の替えがありません。
このお金で、買ってきていただけませんか?」
わたしは先生に封筒を手渡しました。
「わかった。下の売店で買えると思うわ。
すぐ行って来るから、待っててね」
しばらくして、パジャマと下着の替えを3着ずつと、花束を持って、
先生が戻ってきました。
「このお花は先生からのお見舞いね」
Pさんが、どこからか花瓶を持ってきてくれました。
面会時間が過ぎて、先生は「また来るね」と言って帰って行きました。
暗くなってから、Pさんの旦那さんがやってきました。
旦那さんは仕事帰りらしく、疲れた顔をしていました。
それでも、寝ている赤ん坊の顔を覗き込んで、嬉しそうでした。
若い夫婦は二人とも、優しげな雰囲気を漂わせていました。
夫婦の語らいを邪魔しないように、わたしは寝たフリをしました。
そこに、見たことのない男のお医者さんが入ってきました。
お医者さんとPさん夫婦との会話が、勝手に耳に入ってきました。
「3日後に、大学病院のベッドが空きます。
そうしたら、転院して数ヶ月様子を見ましょう」
Pさんの旦那さんが尋ねました。
「すぐに手術はできないんですか?」
「今の状態では、心臓が小さすぎて、手術はできません。
それに、もう少し体重が増えないと、手術に耐える体力がありません」
Pさんが、おそるおそる言いました。
「その……手術して、よくなる見込みは……」
「大学病院の担当医は、経験を積んでいますが、
この症例は大変難しいケースで、成功率は……12%です。
手術しなければ、お気の毒ですが、余命は1年といったところです」