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「んー……あんまり取れないな。お前の耳垢は粉っぽいみたいだ」
差し出された綿棒の先には、粉のような耳垢が少し付いているだけでした。
わたしはそれを見て、あまり汚れていなくてよかった、と思う反面、
収穫の少なさに失望しました。
それからの数日は、なにをする訳でもなく、ただごろごろしていました。
お兄ちゃんが友達に会いに行っているあいだに家事を済ませて、
お兄ちゃんが家に居る時は、なるべくそばに寄りました。
お風呂に入って、その後でマッサージをしてもらうのが日課になりました。
まだ気恥ずかしさは残っていましたけど、日課になってしまうと、
いっしょにお風呂に入るのも、気後れしなくなってきました。
数日経ったある午後、膝枕してもらいながら、お兄ちゃんに言いました。
「お正月はVの家にお呼ばれしてるんだけど、お兄ちゃんも来てくれる?
きっと歓迎してくれると思うよ」
「う……それがなぁ……」
お兄ちゃんは宿題を忘れた子供みたいに、顔をしかめました。
「どうしたの? Vが苦手?」
「ん……そういうわけじゃないんだが……
お正月は田舎に帰らないといけないんだ」
「え? ……じゃ、初詣も?」
「初詣はこっちで済ましてくけど……あっちでも初詣行く約束してて……」
ピンと来ました。
「……それ、家庭教師してた子との約束?」
「ん……まぁな。クリスマスがあんなコトになっちゃったしな……。
せめて初詣ぐらいは、って……」
お兄ちゃんが顔を撫でようとしてきたので、
誤魔化されているような気がして、わたしは顔を背けました。
「…………」
「仕方なかったんだよ……
それぐらい約束しないと家に帰らないっていうから……」
「…………」
「なぁ」
「もし、わたしが家出する、って言ったら……」
「なに?」
お兄ちゃんは、わたしの髪を撫でていた手を止めました。
「お兄ちゃん、なんでも言うこと聞いてくれる?」
息の詰まる沈黙が、しばらく続きました。
「…………お前の言うことなら、なんでも聞いてやりたいよ。
俺にできることならな。なにか、望みがあるのか?」
心臓がどくどく脈打って、顔までいっしょに律動するのがわかりました。
いま、お兄ちゃんに顔を見られていなくて良かった、と思いました。
舌を縛られたみたいに、言葉を口にするのにひどく苦労しました。
「わたし……わたしは……こうしていられれば、それで良い」
思わず、大きく息を吐いてしまいました。
「……そうか。欲がないんだな」
お兄ちゃんも、ホッとしたような息を吐きました。
「今日は遊びに行くか?」
お兄ちゃんは、話を逸らそうとしていたのかもしれません。
でも、わたしもこれ以上、家庭教師の子の話題を続けたくはありませんでした。
「いっしょに?」
「もちろん」
わたしは暖かいフード付きのコートに着替えて、お兄ちゃんと外に出ました。
すると、近所のおばさんが、お兄ちゃんに声を掛けました。
「あら、△△君こっち帰ってたの? 久しぶりじゃない?」
「ご無沙汰してます」
しばらくのあいだ、お兄ちゃんはおばさんと親しげに世間話をしました。
わたしでも会釈ぐらいしかしたことのないおばさんと、
お兄ちゃんはいつの間に仲良くなったんだろう、と不思議でした。
風邪が冷たいので、駅前までバスで出ました。
駅前のアーケードは、年末らしく人混みで賑わっていました。
お兄ちゃんが、ゲームセンターの前で立ち止まりました。
「○○、お前、ゲームする?」
「Vの家でなら、やったことあるけど」
「こういうトコには来ないのか?」
ゲームセンターの外まで、騒がしい音楽が鳴り響いていました。
中にたむろしている人影が、得体の知れない怪しげな人たちに見えました。
「うん、騒がしいのはちょっと……」
「社会見学だと思って、1回ぐらいはいいだろ」
わたしはお兄ちゃんにうながされて、初めてゲームセンターに入りました。
「どれからする?」
中は音がうるさくて、話をするには顔を寄せ合わなくてはいけませんでした。
「どれが面白いの?」
「俺はカーレースゲームをよくやる」
わたしはお兄ちゃんと並んで、
車のハンドルの付いたコックピットのような椅子に座りました。
レースが始まっても、わたしの選んだ車は動きません。
「アクセルを踏むんだ」
「どっちがアクセルなの?」
脱輪ばかりで、1周するのにずいぶん時間がかかりました。
どうやら、手と足を同時に動かさなくてはいけないゲームは、
わたしには向いていないようでした。