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最終学年の2学期が始まりました。
けれど、この頃の学校生活を、わたしはあまり思い出せません。
学校と縁の薄い毎日を送っていたせいでしょう。

受験を目前にしてどこか張り詰めた表情のクラスメイトたちと、
朝から登校していることの珍しいわたしとは、接点がありませんでした。
むしろ、病院の看護婦さんとの会話の方が多かったと思います。
足の関節炎は、良くなったり悪くなったりを繰り返していました。

朝の目覚めが優れない時は、数時間遅刻するか欠席するのが常でした。
欠席が多くても中学校は卒業させてくれます。
なによりも、お兄ちゃんのアパートに通えるぐらいに体力を回復させるのが、
わたしにとっては最優先事項でした。

お兄ちゃんに手紙を書くことはできても、貰うことはできません。
お兄ちゃんとの連絡は、誰にも知られずバイブレータで着信のわかる
ポケットベルが頼りでした。

数日に一度、ポケットに入れたベルがブブブブと震えます。
トイレの個室に入ってベルのディスプレイを確かめます。

「ケ゛ンキカ?」

「ケ゛ンキ」「オシコ゛トタイヘン?」

「カ゛ンハ゛ツテル」

こんな短いやりとりでも、お兄ちゃんの声が聞こえるような錯覚がしてきて、
鼻の奥がつんと熱くなりました。

やがて、わたしの体調が安定してきたので、こんなメッセージを送りました。

「ヘヤニイキタイ」

指定された日曜日は、念のためにUとVにアリバイ工作を頼みました。
お兄ちゃんの住む知らない街まで、電車に揺られながら、
どんな部屋で暮らしているのだろうか、と想像するのも楽しみでした。

駅を出ると、バイクにまたがっているお兄ちゃんの姿が目に留まりました。
久しぶりに見るお兄ちゃんは、少し痩せていました。

「○○、久しぶり。元気そうだな」

何度も何度も心の中で想像していた、お兄ちゃんの笑顔でした。

「久しぶり……お兄ちゃん、痩せた?」

「ん……ちょっと寝不足気味でな。とにかく乗れよ」

タンデムシートに腰を下ろして、お兄ちゃんのお腹につかまりました。

「昼は学校、夜は仕事だからな……学校で寝てる」

表沙汰になるのを嫌ったのか、父親は高校には押しかけていなかったのです。
お兄ちゃんも、高校だけは卒業するつもりのようでした。

駐車場にバイクを停めて、アパートまで少し歩きました。
ボロボロにひび割れたモルタル塗りの古い家が続いています。
お兄ちゃんが足を止めたのは、見たこともないぐらい汚らしい外観の、
老朽化したアパートの前でした。

わたしは建物を見上げて絶句しました。
自然倒壊しないで建っているのが不思議に思えたほどです。
わたしの視線に気づいたお兄ちゃんが説明しました。

「ここはこの辺で一番安いアパートなんだ」

お兄ちゃんは共同の玄関を上がって、すぐ右側の部屋に入りました。
続いて中に入ってみて、その狭さにまた驚きました。
畳敷きで6畳なのですが、畳のサイズが小さいのです。

短辺が75センチぐらいしかない、ミニチュアサイズの畳でした。
おそらく、「6畳」と表記するためだけに、こんな畳を敷いているのでしょう。
えたようなカビくさい臭いがしました。

棒立ちになっているわたしに、お兄ちゃんは苦笑しながら座布団を勧めました。

「驚いたか? 狭くても寝心地はいいんだ。
 家に居た頃よりぐっすり眠れる」

自宅よりも病院のベッドの方が安眠できるわたしには、
お兄ちゃんの気持ちが痛いほど理解できました。

「座れよ。お茶いれるから」

「うん、ありがとう」

わたしが世話を焼きたいところでしたが、勝手がわかりません。
お兄ちゃんのもてなしに甘えることにしました。

座布団に座ってきょろきょろ見回してみました。
本当にモノの少ない部屋でした。
狭いので、荷物を増やせないということもあったのでしょうけど。

部屋の真ん中に小さなちゃぶ台、流しには洗面用具、
ザルに入れたお茶碗とお箸とお皿と小鉢が一つずつ。
小さなお鍋と小さなフライパン。壁に立てかけてあるギター。
目に映るのはたったそれだけでした。
家を出るとき、お兄ちゃんはギター以外なにも持ち出さなかったのです。

ちゃぶ台に紅茶のカップを置き、お兄ちゃんが胡坐をかきました。
わたしの顔をしばらくじいっと見つめてから、言いました。

「少し顔色がよくなったかな? 安心したよ。
 家や学校でつらいことはないか?」

「だいじょうぶ。
 学校にはあんまり行ってないし……家では口を利いてないから」

小さな部屋で小さなちゃぶ台を囲んで、まるでおままごとみたいだ、
とわたしは思いました。それが、とても幸せでした。


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