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夏が来ました。
でも、夏休みになっても、別に心は弾みませんでした。
体力のないわたしは、日中にあまり出歩けません。
帽子を被っていても、炎天下を遠くまで歩くと、
すぐに首や二の腕が真っ赤になり、日射病に罹ってしまいます。
それに第一、夏休みと言っても、剣道部の部活があるので、
お兄ちゃんは毎日ずっと登校していました。
朝に弱いわたしが遅く起きてくると、
早朝お兄ちゃんが庭でやっている竹刀の素振りが終わった頃で、
慌ただしく朝食を一緒にとって、すぐに居なくなってしまいます。
わたしはお兄ちゃんを見送ってから、近くの市立図書館に行って、
エアコンの効いた環境で、夏休みの宿題をしたり、好きな本を読んだりし、
お小遣いに余裕があれば、本屋に寄って帰るのが日課でした。
そう言えばわたしは、家族旅行というものをした事がありません。
両親ともに家庭を顧みない人でしたし、
わたし自身が乗り物酔いする質で、
遠出すると電車でも船でもバスでも吐き通しになってしまうからです。
そんなある日、お兄ちゃんが海水浴に行こうと誘って来ました。
「○○、今度のお盆に海に泳ぎに行こう」
お盆休みだけは、剣道の部活もお休みなのです。
「…………」
わたしはすぐには返事できませんでした。
他の人から誘われたのだったら、即座に断っていたでしょう。
わたしは5年生になっても、まだ全く泳げませんでした。
プール授業の時は、ほとんど日陰で見学していたからです。
泳げなくて、直射日光の照りつける浜辺で遊ぶ事もできなければ、
何のために海水浴に行くのかさっぱり解りません。
「わたし、泳げないし。
スクール水着しか持ってない」
わたしが泳げないのを知っているはずのお兄ちゃんが、
なんでわたしを海に誘うのか不思議でした。
「じゃあ、土曜日に一緒に買いに行こう。
俺も新しい水着買うつもりだし。
お母さんに言ってお金貰っておくよ」
お兄ちゃんは、やけに強引でした。
「どうしても、海でないと駄目?」
内心は、遊園地という所に一度行ってみたかったのです。
が、わたしは人に何かをねだった経験が一度もありませんでした。
「うーん…………」
お兄ちゃんは、困ったような顔をして口を濁しました。
わたしは心の中で首をひねりながらも、
自分がきっと、誘いを断れないと知っていました。
そして土曜日。お兄ちゃんと連れ立ってお出掛けの日。
わたしも自転車に乗れるようにはなっていましたが、
駅前商店街まではかなり距離があったのと、
交通量の多い駅前でわたしの運転ではふらついて危ないという事で、
お兄ちゃんの自転車の荷台にクッションを敷いて、二人乗りです。
甘えるのが苦手だったわたしが、
お兄ちゃんと一緒にお風呂に入らなくなってから、
お兄ちゃんの体に触れるのはずいぶん久しぶりでした。
お兄ちゃんは服を着るとほっそりして見えましたが、
後ろからお兄ちゃんの腰に腕を回すと、
背中にもお腹にも堅い筋肉が付いているのがポロシャツ越しに判って、
まるで樫の木に抱きついているようでした。
二の腕も太くて、試しに握ってみてもわたしの力では凹みません。
大通りに出て、スピードが上がりました。
わたしがペダルをこぐのとは段違いの速さでしたが、
自転車は少しもふらつく事がなく、
お兄ちゃんの腰にしがみついている限り、
何の不安もありませんでした。