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お金を使う遊びはできませんでしたし、する気もありませんでした。
お兄ちゃんと肩を並べてアパートの周りを散歩したり、
秋の風に当たりながら楽器店に楽譜を買いに行ったり、
お兄ちゃんの茹でたパスタをいっしょに食べたりしました。
することがなにも思いつかない時や、
目の下に隈ができるほどお兄ちゃんが疲れている時は、
薄くて固い布団を敷いて、二人でお昼寝しました。
「お兄ちゃん、わたし、ちょっと疲れたみたい」
「それじゃ、昼寝でもするか?」
わたしに腕枕をしながら、お兄ちゃんは先に寝入ってしまいました。
よっぽど疲れているんだろうな、と思いました。
静かに寝ているお兄ちゃんの面差しはふだんと違って、
どこかしら年相応の稚気を感じさせました。
わたしもお兄ちゃんの胸にしがみついて、眠りに就きました。
お兄ちゃんの住む、古ぼけた狭苦しい部屋。
当時はそこだけが、世界中でただ一つ、わたしの安らげる場所でした。
体調の良い週末にはできるだけ、お兄ちゃんの部屋に通いました。
通い妻のように、という言葉を密やかに心に秘めて。
けれど……お兄ちゃんの爪弾くギターの調べに耳を傾けながら、
面やつれして鋭くなった顎の線や、遠くを見つめる眼差しに、
なぜだか言いしれない胸騒ぎを覚えることがありました。
「お兄ちゃん?」
「ん、どうした?」
手を止めてわたしを見るお兄ちゃんの顔は、いつもの笑顔でした。
「…………」
「なにか、悩みでもあるのか?」
「……お兄ちゃんは?」
逆に問いかけると、お兄ちゃんはハッとしたように息を止めて、
瞳を頼りなげに揺らめかせました。
時が、歩みを止めたような気がしました。
「……別に、なんでもない」
お兄ちゃんの表情が、瞬時にしっかりした輪郭を取り戻し、
唇が笑みを形作りました。
わたしはまだ胸落ちしきれず、首を傾げました。
「そう……ならいいんだけど」
自宅への帰り道、駅のホームで電車を待っていると、
正体の判らない不安感が、ひっそりと背筋を這い上がってきました。
わたしの世界に残されている宝物は、
お兄ちゃんの優しい眼差しと、Uの遠慮のない快活さ、Vの無邪気な笑顔、
この三つだけでした。
どうか、こぢんまりとした、ささやかな幸福を奪わないでください、
という祈りを捧げるべき神様は、わたしには居ませんでした。
せめて、この秋の日々が長く続きますように、と願いました。
けれど、その秋が終わらないうちに、願いは唐突に破られました。
休日にわたしがベッドで休んでいると、電話のベルが鳴りました。
受話器を持ち上げて、「もしもし」と答えても返事がありません。
不審に思って「もしもし?」と重ねると、すすり泣く声がしました。
「……もしかして、V?」
「……うん……」
確かにVの声に間違いはないのに、
Vの口から出たとは信じられない、打ちしおれた響きでした。
わたしは努めて優しい声を作り、あやすように囁きました。
「どうしたの? 元気ないみたいだけど」
やがて、泣き声混じりで、切れ切れに助けを求められました。
「わかった。いまどこに居るの?」
「お家」
「すぐそっちに行く」
「ダメ! ……外のほうがいい」
どうやら、家族には知られたくないようでした。
「じゃ、いつも行くあの喫茶店にしましょ。
Uは?」
「お家に居ないみたい……」
「Uはわたしが呼んでおくから、喫茶店で待ってて」
わたしは電話を切って、Uの家に電話をしました。
「あら○○ちゃん? Uなら今塾なんだけど」
「帰ってきたら、**という喫茶店に来るように伝言していただけますか?
急用なんです」
「なにかあったの?」
「……ごめんなさい、言えません」
わたしの剣幕から何かを感じ取ったのか、Uのお母さんは
塾に連絡してUを呼び戻すと言ってくれました。