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夏休みが終わって、2学期が始まりました。
始業式の朝のホームルームで、T先生が担任の交替を発表しました。
「f先生は病気療養のため田舎に帰られた。担任は俺が引き継ぐ」
クラスメイトたちは口々に不満の声を挙げました。
T先生は生徒指導主任として、生徒に恐れられていたのです。
でもわたしは、クラスの喧噪をよそに窓の外を見ていました。
このころの想い出は、おぼろげな灰色の底に沈んでいます。
わたしは補習授業に行かなくなりました。
家に帰っても、お兄ちゃんもHクンも、もう居ません。
放課後にはUやVと連れ立って帰っていましたけど、
昼休みにお弁当をいっしょに食べることは少なくなりました。
UもVも別のクラスで、新しい友達に誘われていたからです。
小学校の頃もそうだった、と思いました。
あの頃は、独りでいるのが当たり前でした。
他の状態を知らなかったので、それが世界の正常な姿だったのです。
でも、以前と状況は似ていても、わたし自身が変わっていました。
UやVのおかげで、なにげないおしゃべりの楽しさを知りました。
2年生になってから、UやVのような友達はできませんでした。
輝きに満ちていた1年前と比べると、眩しい外から暗い部屋に入ったみたいに、
世界は暗く沈んでいるように見えました。
外見上は、変化がなかったかもしれません。
わたしは相変わらず、暇さえあれば本を読んでいました。
本の中の世界に籠もっていた、とも言えます。
ゆっくりと浮力を失って、水面下に没していく潜水艦のように、
わたしを取り巻く世界は、薄暗く、静かで、冷え冷えとした、
変化に乏しいものになりました。
なぜこの頃に、わたしが浮いている力を失っていったのかは、
自分でもよくわかりません。
背が伸びて精悍さを増してきた男子たちに、潜在的な恐怖を覚えたのか。
大人っぽさを増してきた女子たちとの間に、絶望的な溝を感じたのか。
生理からくるホルモンバランスの変化が、心の平衡を乱しただけなのか。
意識的にではなくても、体調の乱れから、学校を休む日が増えました。
体育祭も文化祭も、当日に欠席したので、記憶に残っていません。
楽しかったはずの、UやVと過ごした教会の日曜学校でさえ、
断片的にしか覚えていないのです。
ある時、教会の2階で、Uがこんなことを言いました。
「○○、最近ちっとも元気ないなぁ。ノリ悪いで」
「そう?」
そう言うUのほうが、意気消沈しているように見えました。
「夏休み明けてからずっとや。『お兄ちゃんボケ』とちゃう?
兄ちゃんに会えんようになって、そんなに淋しいか?」
「そうね……」
挑発するようなUの物言いにも、わたしは反発する弾力性を失っていました。
「悩みがあったら教えてねー?」
Vが困ったような顔で身を乗り出してきました。
「うん……」
わたし自身にも、自分がどうして沈み込んでいるのか、
はっきりした理由は掴めていませんでした。
いえ……理由を考えることさえ、おっくうでした。
それでも、魚が頭上の水面に映る太陽の光と熱を感じるように、
心のどこかにまだ、希望のかけらがありました。
わたしはただひたすら、お兄ちゃんからの連絡を待ちました。
自分から電話することは、恐ろしくてできませんでした。
奇妙な強迫観念があったのかもしれません。
わたしから近づいたら、拒否されるかもしれない、という恐れが。
夏休みのお兄ちゃんは、微妙にわたしを避けていたような気がしました。
ひと月待ち、ふた月待っても、電話はかかってきませんでした。
お兄ちゃんはきっと忙しいのだろう、と自分に言い聞かせました。
そんな言い訳では、自分を誤魔化せませんでしたけど……。
わたしは電話の呼び出し音に敏感になっていました。
それでも、秋が深まり、冬の気配が忍び寄ってきた頃、
受話器の向こうからお兄ちゃんの声が聞こえてきた時、
平静ではいられませんでした。
「○○、元気だったか?」
「……うん。お兄ちゃんは?」
「俺はいつだって元気さ。最近お前から手紙来ないから、
ちょっと心配になってな」
「……あんまり書くことがなくて……」
「無事ならいいんだ。安心したよ」
わたしは思い切って、気になっていたことを訊いてみました。
「お兄ちゃんは、冬休み、すぐに帰ってくる?」
「あ……ん……それがな。冬休みには、帰れないと思う」
本当に眩暈がして、わたしは壁に肩をあずけました。
「え? ……どう、して?」
「いや……色々と予定が詰まってるんだ……」
お兄ちゃんらしくもない、言い訳じみた態度でした。