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その翌日の回診の時、O先生が言いました。

「○○ちゃん、昨日、何か変わったことした?」

「え……?」

「尿検査の結果が、急に悪くなってる。
 激しい運動とか、してないね?」

「はい……してません」

「そう……。
 じゃあ、たぶん先生のせいだ」

「……? どういうことですか?」

「昨日、お父さんに見舞いに来てもらったのは、先生が頼んだから。
 逆効果だったみたいね……」

「先生……」

わたしは、何と言っていいかわかりませんでした。
O先生は、顎に手を当てて考え込みました。

「当分のあいだ、面会は禁止にします。
 お兄ちゃんだったら良いけど、もう、来れないんでしょ?」

「はい……」

その後、検査結果は元に戻りましたが、良くもなりませんでした。
今の薬に効き目がないようなので、薬を変えることになりました。

そのうちに、他の腎臓病の子は、次々と退院していきました。
内弁慶の子とネフローゼの子が退院し、最後に泣き虫の女の子が居なくなると、
病室はずいぶん静かになりました。

わたしは、薬の副作用なのか、頭痛や悪心に悩まされるようになりました。
同じ毎日の繰り返しのなかで、何日経ったのか、わからなくなってきました。

わたしはひとりで、もう退院できないのかなあ、とつぶやきました。

「そんなことない」

そう言ってくれたのは、Qさんでした。

「ちょっと順番が遅れてるだけ。
 そんなお通夜みたいな顔してたら、治るものも治らないよ?」

「……そうですか? いつもの顔だと思いますけど」

「暗い、暗すぎるよ!
 どうして小学生がそんなに落ち着いていられるの?」

そんな風に言われても、今に始まったことではないので、答えようがありません。

「それより、Qさん、毎日ここに来てるけど、忙しくないんですか?」

「うん。暇〜。詰め所に居ると婦長がうるさいしねぇ。
 わたしが居ると邪魔?」

「そんなこと、ありません」

Qさんは、病院内の噂話をしてくれたり、漫画雑誌の新刊を買ってきてくれたり、
文庫本を貸してくれたりしました。

今思うと、Qさんがそんなに暇を持てあましていたはずはありません。
わたしがあんまりひっそりとしていたので、元気づけてくれたのでしょう。

ある朝、急に肝炎のお兄さんが居なくなっていました。
わたしは、Qさんに尋ねました。

「(肝炎のお兄さんの名前)さん、退院したんですか?」

「あ……、あの子ね、個室に移ることになったの」

「そうですか……?」

その時のわたしはまだ、個室に移ることが何を意味するか、知りませんでした。

また、新しい薬に変わりました。
酷く不味くて、オブラートで包んで飲んでも、後で臭いげっぷが出ました。
その代わり、効き目は劇的でした。

O先生は、ホッとしたように「今度は当たりだった」と笑い、
食事制限を緩めてくれました。

その日の夕食のおかずは、エビフライでした。
わたしはそれまで偏食がちで、エビやイカが嫌いでした。
ですが、このエビフライには食塩が振ってありました。

おそるおそる口に入れると、舌を塩の味が刺激しました。
食事で塩を味わうのは、ほぼ1ヶ月ぶりです。
エビフライとは、こんなに美味しい物だったのか、と驚嘆しました。
この時から、わたしはエビフライが大好物になりました。

その後、10ccほどしか入らない、小さな醤油差しを渡されました。
これを朝昼晩に分けて使うように、と指示されました。
それまで、甘いか酸っぱいかのおかずしかなかっただけに、
ほんの少しの醤油でも、食欲が進みました。

検査結果が良くなって、今までの静かだった生活に波が立ったようでした。
食堂まで歩いて行って、食事を摂ることも許可されました。

でもわたしは、薄い夏物のパジャマしか持っていなかったので、
そんな格好で人前に出るのは憚られました。
すると、いやじゃ姫のお母さんが旦那さんに電話して、可愛いカーディガンを
届けさせました。

「わたしが着て、いいんですか?」

「この人ったら、この子は10年経たないと着れないのに、
 可愛いからって服買ってくるのよ。バカみたいでしょ?
 仕舞っておいても虫に食われるだけだから、着てちょうだい」

わたしは、花柄のカーディガンを着て、少し緊張しながら食堂に行きました。
周りは顔も知らない大人ばかりでしたが、みんな会釈してくれました。
食堂の大きな窓からは、裏山の見事な紅葉が見えました。

わたしは、肝炎のお兄さんの個室の窓からも、この紅葉が見えるだろうか、
と思いました。食堂の帰りに、わたしはお兄さんを見舞うことにしました。

長い距離を歩くのは久しぶりだったので、手すりにつかまりながら、
病棟の廊下を歩きました。
ドアの横のネームプレートを頼りに、お兄さんの病室を探しました。

お兄さんの病室は、わたしの病室と食堂のあいだにありました。
廊下を挟んでわたしの病室とは反対側で、裏山に面していました。

ドアノブに、「面会謝絶」の札が下がっているのに気づきました。
わたしは仕方なく、自分の病室に戻りました。

次の日、また通りかかると、お兄さんの病室のドアが開いていました。
入り口に立つと、奥にベッドが見えました。

ベッドには誰も寝ておらず、看護婦さんがシーツを替えていました。
わたしは、看護婦さんに歩み寄りました。

「あの……ここに寝ていたお兄さんは、どうしたんですか?」

わたしの声に驚いたのか、看護婦さんはハッと振り返りました。

「あ、ああ、昨夜、退院したの……」

看護婦さんのうわずった声と、泣きはらした目で、わたしは真実を悟りました。


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