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前にもお兄ちゃんに、腕枕をしてもらったことはありました。
でも今度は、髪を撫でてもらっていると、妙に体が熱くなって、息が乱れました。
お兄ちゃんの汗の匂いをかいでいると、頭が痺れるようでした。
「○○、顔を見せてくれ」
「にゃあ……」
顔を上げると、お兄ちゃんの眼差しに射抜かれました。
お兄ちゃんは、息を荒くして、熱に浮かされたような目をしていました。
左腕で抱き寄せられて、わたしは半身をお兄ちゃんの胸に乗せました。
わたしの胸とお兄ちゃんの胸を隔てているのは、一枚の布だけでした。
どきどきしているのが、自分とお兄ちゃんのどちらの鼓動か、わかりません。
自分の体中が、心臓になったような気がしました。
お兄ちゃんの胸とお腹が、大きく上下して、何度も深呼吸しました。
「○○……」
「…………」
言葉が、出てきません。
「○○……苦しいか?」
お兄ちゃんの声は、ひどく苦しげでした。
わたしはなんとか、声を絞り出しました。
「にゃぁ……」
「もう、猫ごっこは終わりだ」
お兄ちゃんの硬い声が、とても残念でした。
わたしがお兄ちゃんに、こんなに素直に甘えられたのは、初めてでしたから。
わたしは子供がイヤイヤするように、お兄ちゃんの胸に頬をこすりつけました。
「なぁ。○○。お前、R君になんて返事するつもりだ?」
今の今まで忘れていた話題を蒸し返されて、わたしは動きを止めました。
「……返事って……?
まだ何も言われてないのに、なんて返事したら良いの?」
「…………」
お兄ちゃんは、またため息をつきました。
「じゃあ……お前はR君のことをどう思ってる?」
わたしは、少し考えてから答えました。
「……善い人」
「それだけ? 学校じゃ、よく一緒に居たんだろ?」
「うん。そう言えば、よく一緒に居た」
「もしも、だぞ。
もしも……R君がお前を好きだ、恋人になりたい、って言ったらどうする?」
「そんなこと、あり得ない」
「あり得ない……って、どうしてだ?」
わたしは、当たり前の事実を指摘するように、言いました。
「こんな暗い子を好きになる人なんか、居ない」
「……どうしてそう思うんだ? 俺は、お前が好きだぞ?」
「どうしてって……お兄ちゃんは特別」
「はぁ……じゃあ、お前がR君を好きになったりは、しないか?」
「好き……?」
「友達になったり、恋人になりたくないか、ってこと」
「友達は……欲しい。恋人は要らない」
「そうか……う〜〜ん……。中学は一緒なんだろ?
だったら、お前からR君に話しかけてみたらどうだ?
友達が欲しいんだったら、積極的にならなくちゃ」
「……何を話していいか、わからない」
「何だっていいさ。きっとR君は、何だって喜んで聞くと思うぞ。
お前はいつでも本を読んでるだろ? 今読んでる本の話とかさ。
試しに今、兄ちゃんに話してみろよ」
「今読んでるのは、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』と、
岩波新書の『量子力学入門』。どっちも猫が出てくる」
「……『アリス』のほうはわかる。チェシャ猫だろ?
姿が消えてもにやにや笑いだけが残るっていう……。
だけど、量子力学の本に、なんで猫が出てくるんだ?
だいたい、そんな本読んで面白いのか?」
お兄ちゃんが、怪訝そうな声で尋ねてきました。
わたしは、お兄ちゃんの胸に息を吹きかけるようにしながら、話し始めました。
「面白いよ。学校で習う理科よりずっと。
お兄ちゃんは聞いたことない? シュレーディンガーの猫のお話。
猫を、箱に閉じこめるの。
箱には猫と一緒に、毒ガスの容器が入ってる。
この容器を壊す装置が、放射線の測定器につながってる。
測定器の側には、放射性同位元素が置いてある。
放射性同位元素が、いつ放射線を出すかは、確率的にしかわからない。
この状態は、シュレーディンガーの波動関数で表される。
放射線が出る確率と出ない確率が、重ね合わされてる。
ということは、箱を開けて中を見るまでは、
猫が生きているか死んでいるかわからない。
生きている猫と、死んでいる猫が、雲みたいに重なって存在しているわけ。
面白いでしょ? ……お兄ちゃん……聞いてる?」
こんなに長く喋るのは、本当に久しぶりでした。
でも、相づちが返って来ないので、不安になってきました。