265:
わたしはいつの間にか、そのまま寝入っていました。
物音で目蓋を開くと、真っ暗な部屋の中にお兄ちゃんが入ってきました。
わたしは身を起こしました。
「あ……お兄ちゃん、お帰りなさい」
「ただいま。起こしちゃったか?」
「良いの。待ってたから」
「残り物だけど、ケーキだ。お腹空いてるだろ?」
お兄ちゃんが片手に提げた箱を振って見せ、
電灯のスイッチに手を伸ばそうとするのを、わたしは止めました。
「このままで良い……」
心臓が壊れるのではないか、と思うほど、激しく高鳴りました。
お兄ちゃんは床にあぐらをかいて、真剣な声を出しました。
「なにか、相談があるんだろ? ○○。
そんなに思い詰めた顔をして……。お兄ちゃんに話してくれないか?」
口の中が糊付けされてしまったみたいに、舌が上手く動きません。
わたしはふぅーっと息を吐きました。
わたしは枕元のリュックから、封筒を取り出しました。
「これ……お兄ちゃんに。プレゼント」
お兄ちゃんは封筒を手にとって、不思議そうな顔をしました。
「開けていいか?」
「……待って! まだ……見ないで」
お兄ちゃんの手の中から、封筒を取り戻したくなりました。
でも、ここまで来たら、もう引き返せない、と思いました。
「その……前に……お風呂……入ってくる」
立ち上がってぎくしゃくと出て行くわたしを、
お兄ちゃんは怪しむような目で、黙って見送りました。
わたしにも、自分が挙動不審なのはわかりました。
頭が正常に機能していないようでした。
浴槽にお湯が溜まるのを、じーっと突っ立って眺めました。
お湯が溜まった頃には、すっかり体が冷えていました。
頭から熱いお湯をかぶると、痛いぐらいでした。
肩まで湯船に浸かって、目をつぶりました。
わたしはひどく愚かなことをしようとしているのではないか……
そんな疑念が胸にきざしてきました。
どうしようもない流れに、背中を押されているようでした。
「○○」
突然、脱衣場からお兄ちゃんの声が聞こえてきて、
わたしはお湯の中で飛び上がりました。
振り向くと、磨りガラス越しにお兄ちゃんの影が見えました。
「なっ、なに?」
「寝間着、ここに置いておくから」
「あ……ありがとう」
お兄ちゃんの影が、脱衣場から消えました。
わたしは浴槽の縁に身を乗り出して、はぁはぁと息をつきました。
湯当たりでのぼせる寸前でした。
わたしは湯船を出て、念入りに、時間をかけて、体を洗いました。
お兄ちゃんの部屋に戻る前に、時間を稼ぎたかったのです。
頭を洗って、もう一度体を洗っていると、体が冷えてきました。
また湯船に体を沈めてあたたまりました。
お湯に浸かっていると、極度の緊張のせいか、気が遠くなりました。
こんこん、とお風呂の扉をノックする音がしました。
「○○、大丈夫か?」
わたしのお風呂があまりに長いので、心配して見に来たようです。
「だいじょうぶ。もう上がる」
「客間に布団敷いといたぞ」
「嫌……お兄ちゃんの部屋が良い。お話があるから」
客間だと、襖越しにお婆ちゃんに聞かれないとも限りません。
「……わかった。待ってる」
お兄ちゃんがそう言って立ち去った後、わたしは脱衣場に出ました。
もう、逃れようがないと思うと、奇妙なほど肚が据わってきました。
バスタオルで体をこすって、湿り気を取りました。
脱衣籠の中に、お兄ちゃんのものらしい、ネルのパジャマが畳んでありました。
替えの下着を脱衣場に持ってきていないことに、初めて気づきました。
わたしは下着をつけずに、お兄ちゃんのパジャマに腕を通しました。
ズボンはだぶだぶで裾を引きずりそうだったので、穿きませんでした。
お兄ちゃんの部屋に続く暗い廊下が、妙に長く感じられました。
スローモーションみたいに、時間の流れが引き延ばされているようでした。
お兄ちゃんの部屋の扉を開けて、中に入りました。
枕元のランプだけ点いていて、パジャマに着替えたお兄ちゃんが、
ベッドに横になっていました。
お兄ちゃんは、首をこちらに向けました。
「……!? ○○、お前、寒くないのか?」
「布団に入ったら、あたたかいよ」
わたしはベッドに上がって、お兄ちゃんの隣に滑り込みました。
毛布と掛け布団は、お兄ちゃんの体温であたたまっていました。