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わたしはいつの間にか、そのまま寝入っていました。
物音で目蓋を開くと、真っ暗な部屋の中にお兄ちゃんが入ってきました。
わたしは身を起こしました。

「あ……お兄ちゃん、お帰りなさい」

「ただいま。起こしちゃったか?」

「良いの。待ってたから」

「残り物だけど、ケーキだ。お腹空いてるだろ?」

お兄ちゃんが片手に提げた箱を振って見せ、
電灯のスイッチに手を伸ばそうとするのを、わたしは止めました。

「このままで良い……」

心臓が壊れるのではないか、と思うほど、激しく高鳴りました。
お兄ちゃんは床にあぐらをかいて、真剣な声を出しました。

「なにか、相談があるんだろ? ○○。
 そんなに思い詰めた顔をして……。お兄ちゃんに話してくれないか?」

口の中が糊付けされてしまったみたいに、舌が上手く動きません。
わたしはふぅーっと息を吐きました。

わたしは枕元のリュックから、封筒を取り出しました。

「これ……お兄ちゃんに。プレゼント」

お兄ちゃんは封筒を手にとって、不思議そうな顔をしました。

「開けていいか?」

「……待って! まだ……見ないで」

お兄ちゃんの手の中から、封筒を取り戻したくなりました。
でも、ここまで来たら、もう引き返せない、と思いました。

「その……前に……お風呂……入ってくる」

立ち上がってぎくしゃくと出て行くわたしを、
お兄ちゃんは怪しむような目で、黙って見送りました。

わたしにも、自分が挙動不審なのはわかりました。
頭が正常に機能していないようでした。
浴槽にお湯が溜まるのを、じーっと突っ立って眺めました。

お湯が溜まった頃には、すっかり体が冷えていました。
頭から熱いお湯をかぶると、痛いぐらいでした。
肩まで湯船に浸かって、目をつぶりました。

わたしはひどく愚かなことをしようとしているのではないか……
そんな疑念が胸にきざしてきました。
どうしようもない流れに、背中を押されているようでした。

「○○」

突然、脱衣場からお兄ちゃんの声が聞こえてきて、
わたしはお湯の中で飛び上がりました。
振り向くと、磨りガラス越しにお兄ちゃんの影が見えました。

「なっ、なに?」

「寝間着、ここに置いておくから」

「あ……ありがとう」

お兄ちゃんの影が、脱衣場から消えました。
わたしは浴槽の縁に身を乗り出して、はぁはぁと息をつきました。
湯当たりでのぼせる寸前でした。

わたしは湯船を出て、念入りに、時間をかけて、体を洗いました。
お兄ちゃんの部屋に戻る前に、時間を稼ぎたかったのです。

頭を洗って、もう一度体を洗っていると、体が冷えてきました。
また湯船に体を沈めてあたたまりました。
お湯に浸かっていると、極度の緊張のせいか、気が遠くなりました。

こんこん、とお風呂の扉をノックする音がしました。

「○○、大丈夫か?」

わたしのお風呂があまりに長いので、心配して見に来たようです。

「だいじょうぶ。もう上がる」

「客間に布団敷いといたぞ」

「嫌……お兄ちゃんの部屋が良い。お話があるから」

客間だと、襖越しにお婆ちゃんに聞かれないとも限りません。

「……わかった。待ってる」

お兄ちゃんがそう言って立ち去った後、わたしは脱衣場に出ました。
もう、逃れようがないと思うと、奇妙なほど肚が据わってきました。

バスタオルで体をこすって、湿り気を取りました。
脱衣籠の中に、お兄ちゃんのものらしい、ネルのパジャマが畳んでありました。

替えの下着を脱衣場に持ってきていないことに、初めて気づきました。
わたしは下着をつけずに、お兄ちゃんのパジャマに腕を通しました。
ズボンはだぶだぶで裾を引きずりそうだったので、穿きませんでした。

お兄ちゃんの部屋に続く暗い廊下が、妙に長く感じられました。
スローモーションみたいに、時間の流れが引き延ばされているようでした。

お兄ちゃんの部屋の扉を開けて、中に入りました。
枕元のランプだけ点いていて、パジャマに着替えたお兄ちゃんが、
ベッドに横になっていました。

お兄ちゃんは、首をこちらに向けました。

「……!? ○○、お前、寒くないのか?」

「布団に入ったら、あたたかいよ」

わたしはベッドに上がって、お兄ちゃんの隣に滑り込みました。
毛布と掛け布団は、お兄ちゃんの体温であたたまっていました。


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