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わたしは、電車の座席で揺られていました。
左隣の父親が、ずっとぶつぶつ悪態をいていましたけど、
わたしは聞いていませんでした。
夕暮れ時だった……はずです。けれど、自信はありません。
世界が色を無くしていたのは、わたしの気分のせいだったとも思えます。

その記憶のどこにも母親の姿が登場しないのは、
忘れてしまったか、それとも本当にその場に居なかったのか、わかりません。
わたしの意識はひたすら、「お兄ちゃん、どうして?」という言葉に
塗り潰されていました。

父親の背中を追って、救急病院に入りました。初めて見る病院です。
わたしがいつも通っている病院とは違う、よそよそしい雰囲気でした。
お医者さんが父親となにか話しています。
わたしが聞き取れたのは、一言だけでした。

「命に別状はありません」

お兄ちゃんは生きている……安堵のあまり、わたしはよろめきました。
病室に入ると、周りに居るはずの看護婦さんも父親も、意識から消えました。
お兄ちゃんは、白い顔をして、白いベッドに横たわっていました。

わたしは枕元にとりすがって、間違いなくお兄ちゃんが呼吸していることを
確かめました。目をつぶっていましたけど、眠ってはいないようでした。

「お兄ちゃん……」

知らないうちに、わたしは泣いていました。
取り乱しすぎて、どうして涙が出てくるのか、自分でもわかりません。
お兄ちゃんは目蓋を閉じたまま、つぶやきました。

「すまん……すまん……」

病院への道すがら、ずっと頭を占めていた質問が口をついて出ました。

「どうして、どうして、死のうとしたの?」

「……わからん。覚えてないんだ。今日、なにがあったか」

大量に摂取したという睡眠薬の影響か、記憶が混乱しているようでした。
そばにいた看護婦さんが、声をかけてきました。
お兄ちゃんは体を鍛えているせいで、軽く済んだ、ということ。
一晩だけ入院して経過を見たら、帰宅できるということ。
そして、もう一つ。

「gさんのことも、心配しなくていいよ。
 もともと体が弱くて、内臓に影響が出ているみたいだから……
 しばらく入院してもらうことになりそうだけど」

振り向いて、看護婦さんに頼みました。

「あの……お見舞い、できますか?」

「う〜ん。今眠っていると思うんだけど。顔を見るだけだったらいいかな」

わたしは、たぶん父親といっしょに、gさんの病室に案内されました。
今日初めて名前を知った、お兄ちゃんといっしょに薬を飲んで、
心中しようとした女の人の所へ。

病室に入ると、白いベッドに寝ているgさん以外、誰も居ませんでした。
付き添いの家族は、まだ来ていなかったようです。
目蓋を閉じているgさんの顔を見て、わたしは息が止まりました。

肩より短くした髪。透けるように白い肌。血の気の薄い唇。
毛布を掛けていてもわかる、華奢な首と肩。
わたしより一つ年上だけど、平均より低めの身長。
お兄ちゃんの通う高校の下級生だというgさんは……
並ぶと姉妹と間違えられそうなほど、わたしによく似ていました。

眠り姫のように目を開かないgさんの枕元で、わたしは丸椅子に座って、
顔を眺めました。これが……お兄ちゃんがいっしょに死のうとした相手。

お兄ちゃんが自殺を図るなんて、その時まで想像もしていませんでした。
わたしは一瞬たりとも、自ら死のうなどと、考えたこともありませんでしたから。
でも……もしお兄ちゃんが死を望んだとしたら……。
どうしても、お兄ちゃんを翻意させられなかったとしたら。

わたしは、お兄ちゃんに付き従って、共に死を選んだかもしれません。

けれど。
けれど……!
お兄ちゃんが死への道連れとして選んだのは、わたしではありませんでした。

gさん。
わたしによく似た顔と背格好の。
きっと、お兄ちゃんがわたしに隠していた、恋人。
わたしの知らない理由で、いっしょに死のうとしたほど、お兄ちゃんが愛した人。

わたしの心は散り散りになっていて、
どうして自分がまだ体を動かすことができるのか、不思議でした。
自分がどんな受け答えをしたのか、覚えていません。
いつ、誰から、gさんのことを聞いたのかも。
お兄ちゃんから聞いたのか、それとも父親と母親の話を耳にしたのか。

gさんは、お兄ちゃんの通っていた高校の、1年生でした。
父親は誰だかわかりません。
母親は、gさんがまだ幼い頃に、姿をくらましたそうです。

gさんが育ったのは、伯父さんの家でした。
生まれつき体が弱くて、入退院を繰り返していました。
gさんは、厳しくしつけられました。
母親と同じような不始末をしでかさないために。
伯父さん夫婦とgさんの折り合いは、悪かったようです。

gさんは、高校に入学して、転校してきたお兄ちゃんと知り合いました。
孤独だったgさんは、お兄ちゃんの優しさに惹き付けられ、
お兄ちゃんは、gさんの孤独に惹き付けられたのだと思います。
けれど、お兄ちゃんとgさんの交際は、伯父さん夫婦から反対されていました。

心中未遂の原因は、付き合うことを禁じられたせいだ、と周りは見ました。
それが本当だったのかどうか、わたしにはわかりません。


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