82:
それからわたしがどうやって自分の病室に戻ったのか、思い出せません。
毛布をかぶって天井を見ていると、いやじゃ姫のお母さんが声を掛けてきました。
「大丈夫? 看護婦さん呼ぼうか?」
「だいじょうぶ……です」
深い深い、海の底に居るようでした。
わたしは深海魚のようにじっと動かず、息を潜めていました。
目をつぶっていると、自分の胸がどくどくと脈動する音だけが聞こえました。
何も考える気力がなくても、体は勝手に生きようとしていました。
わたしは深呼吸をして、目を見開き、口の中でそっとつぶやきました。
「お兄さん……さよなら」
お兄さんと交わした数少ない言葉を、忘れないようにしよう、と思いました。
O先生が、退院のスケジュールを口にしました。
「ホントは、もう退院しても良いんだけどね。
ちゃんと学校に通えるぐらい体力が回復するまで、
そうね……あと1週間か10日、ここに居なさい」
「はい、先生。
あの……相談があるんですけど」
「なに?」
「髪を切りたいんですけど、かまいませんか?」
「その髪を? それだけ伸ばしてるのに、勿体なくない?」
「髪が長いと、自分で洗うの大変なんです。
手入れが悪いと、傷んじゃいますし」
「そうね。切るんだったら今のうちかもね。
退院してから切ったら、風邪引いちゃうかもしれないし。
風邪だけは引かないように注意しないと、ここに逆戻りよ」
結局わたしの髪は、Qさんが切ってくれることになりました。
大部屋では狭いということで、初めて見る部屋に連れて行かれました。
入ってみると、ベッドも何もない、殺風景な部屋でした。
「Qさん、ここは何の部屋ですか?」
「空き部屋というか、休憩室というか……気分転換する場所ね」
「……?」
わたしはパイプ椅子に腰を下ろし、ゴムのシートを体に巻かれて、
てるてる坊主のようになりました。
「どれぐらい切る?」
「思い切って、短くしてください。耳が見えるぐらいに」
「そう……勿体ないなぁ……。
心配しなくていいよ。わたし髪切るの上手いから。
田舎にいるときは弟の髪をよく切ってあげてた」
「弟さん、居るんですか?」
ばさり、と髪の房が落ちました。
「うん。まだ中3だけどね。
散髪代浮かして二人で山分けにしようとして、
最初は失敗して丸坊主にしちゃった。
泣いてたなー、あいつ」
Qさんがあははは、と笑いました。
「ひどい」
わたしも、くすくす笑いました。
襟足と前髪が揃い、頭のてっぺんを梳き刈りされると、帽子を脱いだように
頭が軽くなりました。
「こんなもんかな?」
Qさんが、手鏡をわたしの顔の前に差し掛けました。
おかっぱ頭より短くなって、別人のように見える自分が鏡の中に居ました。
それから毎日、廊下やロビーを散歩して、足を鍛えました。
退院までの1週間は、あっという間でした。
退院の前日、ひとりで屋上に行きました。
吹きさらしの屋上に立つと、首がすーすーしました。
屋上から見下ろす街は、もう遥か遠くの景色ではありませんでした。
明日から、わたしもそこに戻って行きます。
Pさんの赤ん坊のこと、まだ退院できないいやじゃ姫のこと、
そして最後まで退院できなかった肝炎のお兄さんのことを思うと、
胸がずきんと痛みました。
退院の日、いやじゃ姫のお母さんとQさんが、タクシー乗り場まで
見送ってくれました。
「今まで、ありがとうございました。また来ます」
Qさんが、怒ったふりをして言いました。
「入院病棟にまた来るなんて縁起でもない。
元気になって、顔を見せなくなるのが、なにより嬉しいの」
わたしはタクシーの窓から手を振って、二人に別れを告げました。