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それからわたしがどうやって自分の病室に戻ったのか、思い出せません。
毛布をかぶって天井を見ていると、いやじゃ姫のお母さんが声を掛けてきました。

「大丈夫? 看護婦さん呼ぼうか?」

「だいじょうぶ……です」

深い深い、海の底に居るようでした。
わたしは深海魚のようにじっと動かず、息を潜めていました。

目をつぶっていると、自分の胸がどくどくと脈動する音だけが聞こえました。
何も考える気力がなくても、体は勝手に生きようとしていました。

わたしは深呼吸をして、目を見開き、口の中でそっとつぶやきました。

「お兄さん……さよなら」

お兄さんと交わした数少ない言葉を、忘れないようにしよう、と思いました。

O先生が、退院のスケジュールを口にしました。

「ホントは、もう退院しても良いんだけどね。
 ちゃんと学校に通えるぐらい体力が回復するまで、
 そうね……あと1週間か10日、ここに居なさい」

「はい、先生。
 あの……相談があるんですけど」

「なに?」

「髪を切りたいんですけど、かまいませんか?」

「その髪を? それだけ伸ばしてるのに、勿体なくない?」

「髪が長いと、自分で洗うの大変なんです。
 手入れが悪いと、傷んじゃいますし」

「そうね。切るんだったら今のうちかもね。
 退院してから切ったら、風邪引いちゃうかもしれないし。
 風邪だけは引かないように注意しないと、ここに逆戻りよ」

結局わたしの髪は、Qさんが切ってくれることになりました。
大部屋では狭いということで、初めて見る部屋に連れて行かれました。
入ってみると、ベッドも何もない、殺風景な部屋でした。

「Qさん、ここは何の部屋ですか?」

「空き部屋というか、休憩室というか……気分転換する場所ね」

「……?」

わたしはパイプ椅子に腰を下ろし、ゴムのシートを体に巻かれて、
てるてる坊主のようになりました。

「どれぐらい切る?」

「思い切って、短くしてください。耳が見えるぐらいに」

「そう……勿体ないなぁ……。
 心配しなくていいよ。わたし髪切るの上手いから。
 田舎にいるときは弟の髪をよく切ってあげてた」

「弟さん、居るんですか?」

ばさり、と髪の房が落ちました。

「うん。まだ中3だけどね。
 散髪代浮かして二人で山分けにしようとして、
 最初は失敗して丸坊主にしちゃった。
 泣いてたなー、あいつ」

Qさんがあははは、と笑いました。

「ひどい」

わたしも、くすくす笑いました。

襟足と前髪が揃い、頭のてっぺんを梳き刈りされると、帽子を脱いだように
頭が軽くなりました。

「こんなもんかな?」

Qさんが、手鏡をわたしの顔の前に差し掛けました。
おかっぱ頭より短くなって、別人のように見える自分が鏡の中に居ました。

それから毎日、廊下やロビーを散歩して、足を鍛えました。
退院までの1週間は、あっという間でした。

退院の前日、ひとりで屋上に行きました。
吹きさらしの屋上に立つと、首がすーすーしました。

屋上から見下ろす街は、もう遥か遠くの景色ではありませんでした。
明日から、わたしもそこに戻って行きます。

Pさんの赤ん坊のこと、まだ退院できないいやじゃ姫のこと、
そして最後まで退院できなかった肝炎のお兄さんのことを思うと、
胸がずきんと痛みました。

退院の日、いやじゃ姫のお母さんとQさんが、タクシー乗り場まで
見送ってくれました。

「今まで、ありがとうございました。また来ます」

Qさんが、怒ったふりをして言いました。

「入院病棟にまた来るなんて縁起でもない。
 元気になって、顔を見せなくなるのが、なにより嬉しいの」

わたしはタクシーの窓から手を振って、二人に別れを告げました。


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