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指導室に入ってみると、会議用の長机とパイプ椅子が並んでいました。
f先生は振り返って言いました。
「今日は誰もいないけど、普段はここで補習があるんだ」
「はい……?」
「××も補習を受けてみないか?」
「……わたしの成績、落ちているんでしょうか?」
補習を受けなければならないほど、自分の成績が落ちているとは思えませんでした。
「いや、成績は全然問題ない。
ただ、1年の時から××は欠席が多いな」
「はい」
「2年になったら授業も段々難しくなってくる。
家で勉強して遅れを取り返すよりは、ここで自習した方がいいんじゃないか?
ここでなら、解らないところはすぐに質問できるぞ」
「……そうですね」
わたしは家では勉強していませんでしたけど、それは口にしませんでした。
以前知らないクラスメイトから、どこの塾に行っているのかと訊かれた時、
勉強は学校でしかしていない、と答えたら、信じてもらえなかったからです。
「それじゃ、決まりだな」
「はい。よろしくお願いします」
どうせ早く家に帰っても、本を読むぐらいしかすることはありません。
たとえそれが仕事でも、先生がわたしのことを気にかけてくださるのは、
胸がじんと温かくなるような思いがしました。
2年生になって、クラスが変わり、担任が変わっただけではありませんでした。
新学期から、わたしも体育の授業に出られるようになりました。
でも、元々体力が無い上に、長いあいだ運動していなかったので、
体育の授業は苦行の連続でした。すぐに息が切れてしまいます。
バレーボールのような団体競技の時は、特に憂鬱でした。
わたしがチームの足を引っ張ってしまうからです。
わたしがボールを受け損なった時の、チームメイトの蔑むような視線が苦痛でした。
それに比べたら、補習の時間はオアシスでした。
することがないときは、好きな本を堂々と読むことができました。
黙々と課題に取り組んでいる生徒たちと、その間を巡回して小声で教える先生。
一枚の絵のような光景の中に、自分も含まれているのだ、と思いました。
f先生は、優しくて指導に熱心だというので、女子に人気が出ました。
わたしはやっぱり、新しいクラスの女子のグループにも馴染めませんでしたけど、
f先生の噂話——というよりむしろ歓声——が漏れ聞こえることはありました。
ある女子が、f先生にラブレターを出した、ということまで。
その噂は、わたしには衝撃的でした。f先生はずっと年上で、
クラスで噂されるカップルとは異なる次元に居る、と思っていたからでしょう。
そのラブレターが本気だったのかどうか、わたしにはわかりません。
わたしにとって、f先生は、どことなくお兄ちゃんに似ていて、もっと大人で、
わたしたちを見守ってくれるお父さん、のような印象がありました。
わたしはそれまで図書室によく通っていたのですが、
昼休みや放課後には、指導室に居ることが多くなりました。
指導室では、1人で本を読んでいても、1人ではないような気がしました。
ある時、隣で課題を解いていた女子が、わたしに話しかけてきました。
「××さん、ちょっといい?」
わたしは彼女の名前を知らないのに、
どうして彼女はわたしの名前を知っているのだろう、と思いました。
「……なに?」
「ここ、わかる?」
f先生は、ちょうど他の生徒になにか教えている最中でした。
「ここは……この公式をあてはめて……」
うまく言葉で説明できそうになかったので、
わたしは数式を立てて変形する手順を、省略せずに書き出しました。
「わかった。ありがと」
「どういたしまして」
「も1つ、訊いていい?」
「なにを?」
「××さん、どうしてここにいるの? 成績良いんでしょう?」
わたしは一瞬、答えに詰まりました。
「……ほかに、行くところがないから」
ぽろりとこぼれたこの答えが、本音だったのだろう、と思います。
彼女が納得したかどうかはわかりませんが、それ以上追及はされませんでした。
やがてわたしは、他の生徒に尋ねられて教えることが多くなりました。
補習を受けに来たというよりは、先生の助手のような、微妙な立場でした。
ある日の帰り際、わたしはf先生を捕まえました。
「あの……先生」
「なんだ? ××」
「わたしが他の生徒に教えて、良いんでしょうか?」
「……なんだ、気にしてたのか? いいことじゃないか。
人に教えるってことは、自分がよく理解してないとできないからな。
その分、自分にも勉強になる。俺もまだまだだけどな……」
最後のところで、f先生は苦笑しました。わたしもホッとして微笑みました。
他の生徒たちと仲良く話すようになったわけではありませんでしたけど、
自分にも居場所ができたような気がしました。
そんな平穏な日々が終わりを告げたのは、1学期の終わり近くでした。