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結局、文庫本は取り出さないままでした。
並んで歩くのに、わたしがずっと読書していたのでは失礼です。
わたしは無言でした。男子のことを何も知らないので、話題がありません。
R君も無言でした。わたしに話す用事が何も無かったのでしょう。
ゆっくりゆっくり歩いて、わたしの家の近くの交差点に差し掛かりました。
角を曲がると、すぐにわたしの家です。
「R君はどっち?」
「え? あ、僕はあっちだけど」
「そう。じゃ、さよなら」
わたしが向きを変えようとした時、突然R君はわたしの目の前で、
豪快なヘッドスライディングを決めました。
道路の段差に足を取られたようです。
わたしは呆気にとられて、R君を見下ろしました。
R君は、なかなか立ち上がりません。
「……だいじょうぶ?」
「……うん」
あんまり大丈夫そうではありませんでした。
立ち上がったR君の手のひらと膝から、血が出ていました。
「歩ける?」
「うん」
「じゃ、付いてきて」
わたしが玄関の鍵を開け、振り向くと、R君は付いてきていました。
「おじゃまします」
「誰も居ないから、気にしなくて良い」
R君をダイニングの椅子に座らせ、わたしは救急箱を取りに行きました。
「しみると思う」
警告してから、わたしはしゃがんで、アルコールを染みこませた脱脂綿で、
R君の手のひらと膝の傷を拭き、ぐるぐる包帯を巻きました。
「大げさじゃないかな?」
「傷口からばい菌が入ると、破傷風になるかもしれない」
「そ、そう? ありがとう」
「どういたしまして」
その後、席替えがあって、R君と同じ班になりました。
間近で見てわかったのですが、R君は真面目で責任感が強い代わりに、
信じられないほどドジでした。
理科の実験中には、わたしが見ている目の前で、
試験管立てをひっくり返して全部割ってしまいました。
給食の時間には、わたしとすれ違おうとして、椅子に足を引っかけ、
向かいの女子のお膳に飛び込みました。
そんなある日、わたしが放課後にぼーっとしていると、ひとりになっていました。
そう言えば、今日はわたしが掃除当番でした。
わたしが箒で床を掃いていると、R君が教室に入ってきました。
「あれ? ××さん、ひとり?」
「うん」
「ほかの掃除当番は?」
「帰った」
「え? いいの?」
「わたしはよく休んで、あんまり当番してないから、かまわない」
「……じゃあ、手伝うよ」
「R君は、掃除当番じゃないでしょ?」
「2人でやれば早く終わるよ」
「ゆっくりやるから大丈夫」
「……」
R君は困ったような顔をして、黙ってしまいました。
みんなが嫌がる掃除当番を、こんなにやりたがるなんて変わっているなあ、
と思いました。
「R君、バケツに水を汲んできてくれる?」
雑巾がけするのに必要な水を、バケツで運ぶのはわたしには大変でした。
「うん!」
R君は、バケツを下げて走って行きました。
わたしが箒を使っていると、R君が真っ赤な顔で帰ってきました。
両手で下げたバケツには、なみなみと水が入っています。
R君が、目の前でつまずきました。
わたしは思わずバケツを受け止めようとして、まともに水を浴びてしまいました。
しりもちを着いたわたしの、胸から下と床は水浸しでした。
「ごごごごごめん!」
R君は完全にうろたえていました。
わたしは立ち上がって、怪我がないことを確かめました。
その代わり、カーディガンもブラウスもスカートもずぶ濡れです。
「わざとじゃ、ないでしょ?」
「もちろん!」
「だったら、仕方がない」
このままでは、確実に風邪を引いてしまいます。
「着替えるから、外から誰も入ってこないようにして」
R君を廊下に追い出して、カーテンを閉め、服を脱ぎました。
アンダーシャツやショーツにまで、水が浸みていました。
体育の見学の時は、体操服に着替える規則がありましたが、
わたしは寒くないように、いつも私服のままでした。
学校に置いてあるのは、洗濯して袖を通していない夏物の体操服だけでした。
わたしは仕方なく、素肌に半袖の体操着とブルマを着ました。