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荷物の入った鞄をお兄ちゃんが手に提げて、二人でバスに乗りました。
3回目ともなると、入院の手続きはもう慣れたものです。
小児科のベッドが空いていないので、内科病棟に行きなさい、と言われました。

内科病棟は、元々裏山だった場所に建てられた新館の中にありました。
真新しくて綺麗な反面、旧館より天井が低くて窮屈でした。
同室の患者さんたちは、お婆さんやおばさんばかりで、
きっと色々と世話を焼いてくれたのでしょうけど、
ふさぎ込んでいたわたしには、おぼろげな印象しか残っていません。

この頃のわたしは、トンネルだらけの山道を運ばれているようなものでした。
お兄ちゃんやUやVがお見舞いに来てくれた時だけ、世界は明るくなり、
そうしてまた、暗い闇に潜って行く……。

わたしは将来を悲観しすぎていたのかもしれません。
でも、UやVが大人になって幸せになる様子は想像できても、
自分が成人して屈託なく笑う未来だけは、見えなかったのです。

それでも、わたしは傍目にはおそらく普通に、日々を過ごしました。
曜日の感覚を忘れ、起きている間は暇さえあれば本を読み、
話しかけられた時は反応して、うっすらと笑うこともありました。
わたしはまだ、本当の絶望というものを、知りませんでした。

入院生活が2週間を過ぎたある日の午後、転機がやってきました。
突然、父親が車椅子を押して病室に現れたのです。ただ事ではない表情でした。
わたしは無言で、父親の顔を見つめました。

「○○、退院するんだ」

え?どういうことだろう?とわたしは思いました。
わたしの検査結果は、まだ退院できるような数値にはなっていませんでした。
父親の後ろで看護婦さんが、泣きそうな顔をしていました。

否応もなくわたしは車椅子に乗せられ、父親の車で帰宅の途につきました。
重苦しい沈黙の中、横目で父親の顔を見ると、険しい顔つきをしています。
父親がぽつりと言いました。

「入院費が高すぎる」

入院して半月が経って、最初の請求があったのです。
続いて父親の口から出た入院費の額は、それまでと桁違いに高額でした。
それを知った父親が病院に乗り込んで、強引に私を退院させたのです。

後になって、その請求はコンピューターの誤りによるものだと判りましたが、
全ては後の祭りでした。

わたしは自分の部屋のベッドで一人になって、自分を納得させようとしました。
思っていたよりも、わたしの家は貧乏だったんだ……と。
入院していても、どうせ薬を飲んで寝ているだけなんだから、たいして変わらない、と。

外が暗くなってきた頃に、お兄ちゃんが帰ってきました。
玄関にわたしの靴があるのを見て、驚いたのでしょう。
すぐにドアがノックされました。

「○○? 帰っているのか?」

「ただいま、お兄ちゃん。入って」

お兄ちゃんはわたしのベッドに腰を下ろしました。
案の定、怪訝そうな表情でした。

「退院するんだったら迎えに行ったのに……どうして急に?」

父親がわたしを無理やり退院させたのだと知ったら、
お兄ちゃんはきっと父親を許さないだろう……と思って、嘘をつきました。

「……入院生活が退屈で……お兄ちゃんの居る家に戻りたかったから、
 先生に無理を言って退院させてもらったの。
 病院にいても寝ているだけだし、自宅療養でもおんなじかな、って」

「ん……? それにしても急な話だな……」

わたしが主治医の先生に駄々をこねたというのが信じられないのか、
お兄ちゃんは釈然としない様子でした。

わたしは笑顔を作って言いました。

「お兄ちゃんは、わたしが帰ってきたら……邪魔?」

「そんなことあるわけないだろ。そりゃ嬉しいけどさ、びっくりしたよ」

「まだ普通食は食べられないけど、ご飯作ってくれる?
 病院のご飯は美味しくなかった」

「ああ、もちろん! 腕によりをかけて作ってやる」

わたしがはしゃいだ声を出すと、お兄ちゃんはやっと笑顔になりました。

「あ……それから、お願いがあるんだけど……」

「ん? なんだ?」

わたしの声はだんだん小さくなりました。

「あの……その……まだ……下のトイレまで行けないから……
 溲瓶とおまるで用を足さなくちゃいけないの……だから……」

お兄ちゃんはにやっと笑って答えました。

「わかったわかった。恥ずかしがらなくてもいいぞ。汚いなんて思わないから」

そう言われても、焼けつくような恥ずかしさに顔が紅潮してきて、
わたしは毛布で顔を隠しました。

「待ってろ。晩ご飯作ってくる」

お兄ちゃんはわたしの頭をぽんぽんと手のひらで押さえて、出ていきました。
わたしの自宅療養は、こうして始まりました。

退院のお祝いは、わたしの体調がまだ良くなっていないので、延期しました。
UとVにはお兄ちゃんから連絡してもらいましたが、
お見舞いに来てもらっても、わたしがぐったりしていては、あまり騒げません。
わたしがなぜ良くなっていないのに退院したのか、二人とも不思議そうでした。

「なんやアンタ、前より顔色悪いんちゃう?」

「そうだよー」

「そうかな……だんだん良くなると思うよ」

無理をして笑って見せても、UとVには通じませんでした。


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